壬生


【八木邸】
 1863年(文久3年)将軍家茂の上洛警護のため、清河八郎が率いる浪士組が上洛した際に宿舎の一つとして 使われた。浪士組は在京20日あまりで再び江戸に戻ったが、八木邸に分宿していた近藤勇や土方歳三などと、 芹沢鴨などの一派は引き続き京都の警備の為残留し、京都守護職松平容保に仕えて新撰組を結成した。 当初、新撰組は当屋敷に「新撰組宿所」の表札を掲げ、隊員はわずか10数名で発足したが、次第に隊員が増加し、 付近の農家にも分宿した。以後、市中の治安維持に努め、1865年(慶応元年)西本願寺へ屯所を移転するまでの 2年間をここで過ごした。 局長の芹沢鴨らはここで暗殺され、奥の部屋の鴨居にはその時にできた生々しい刀傷が今も残っている。 また、当時の長屋門や座敷がそのまま残されており、離れの前には隊士達が愛飲していた井戸水が 沸いている。

【八木邸 腰掛の石】
 本屋敷と表屋敷との間にあった石で、隊士たちも腰を下ろし休んでいたらしい。 屋敷内を2〜3回移動した後、ここに落ち着いたらしい。


【前川邸】
 八木邸が手狭になった新撰組が京都所司代から斡旋された宿所。近藤勇は好んで前川邸を主な宿所とし、後に新撰組屯所の看板を掲げた。 守りを固める為、屋敷に手を加え城塞化していき、屋敷を取り囲む塀は、その殆どを土塀に改修し、西側だけにあった長屋門の出格子を 監視用に東側にも取り付けた。また、母屋のほぼ中央にある納戸からは外に脱出できるよう抜け道も造られた。さらに、池田屋事件の後には、勤王派の 報復に備え、会津藩から借り受けた大砲までも備え付けたという。 前川邸では、家族全員が本家への避難生活を余儀なくされ、壬生から西本願寺へ屯所を移転する際、迷惑料として10両が置かれたという。 新撰組の屯所は7年間に3度変わったが、一番長く住んだのが前川邸だった。


【壬生寺】
 新撰組屯所に隣接した古刹で、敷地内には壬生塚も残っている。当時新撰組は剣術の稽古や、馬や大砲を使った訓練を始め、 拷問・切腹などをここで行った為、一時は本山参りに訪れる門徒が途絶えた。 尚、壬生寺は991年に創建された律宗の古刹で、本尊は開運、厄除けの地蔵菩薩として信仰を集めていおり、重要文化財にも指定されている。 また、春と秋に行われる「壬生狂言」も有名で、重要無形文化財に指定されている。

【壬生塚】
 壬生寺の北東角に位置する壬生塚には近藤勇の胸像、その横に遺髪塔がある。 その他、新撰組隊士7名及び八木邸で 暗殺された芹沢鴨・平山五郎らの墓や、また、隊規に背いたとして処刑された新撰組会計の河合耆三郎の墓もある。


【新徳禅寺】
 壬生寺の向かいにある寺で、新撰組の前身 壬生浪士隊発足の場所。浪士組が上洛した夜に、ここで清川八郎が尊皇攘夷の 大義を説いた。壬生村に来た浪士組の目付、取締、調役の三役と清川八郎の宿所となった。


【光縁寺・山南敬助の墓】
 知恩院の末寺となる浄土宗の寺で、幕末には新撰組の馬小屋があり、隊士達が連日訓練に明け暮れていた。 祭壇には新撰組隊士を祀る位牌などが安置されている。また、脱獄の罪により切腹した新撰組総長山南敬介(享年33歳) の墓が本堂裏手にある。何故山南敬介らがこの寺に入ったか定かではないが、瓦の紋が山南の家紋と同じだったからという説もある。 その他、松原忠司、大石鍬次郎の弟ら新撰組隊士の墓がある。