豪農であり、かつ篤農家でもあった近藤勇の父宮川久次郎は、広い自分の屋敷内に寺子屋を開くとともに、
幕末時盛んであった武術の一派「天然理心流」の道場を持って、勇とその兄たちをはじめ近在の子弟を集めて学
問や武術を指導していた。天然理心流は、近藤長裕を初代とする流派で、江戸に道場を持つかたわら多摩地方に
広く出稽古を行い、門弟の指導にあたっていた。小技よりも気迫を重んじ、いかなる相手にも動じない極意必勝の
実践を大事にする武道であった。三代目近藤周助は、月に二・三回招かれて久次郎の道場に通っていたが、
勇の度胸と技量を見込み、嘉永二年(一八四九)近藤家の養子として迎えいれた。時に勇十六歳、後二十八歳で
四代目を襲名した。この道場は、明治九年(一八七六)に近藤家の養子となり、勇の一人娘と結婚して天然理心流
五代目を継いだ近藤勇五郎(勇の長兄音五郎の次男)の道場で、勇五郎は多摩一円の門人三千人を指導したとも
いわれている。勇五郎は明治九年に父から分け与えられた屋敷内の納屋を道場とした。この道場が「撥雲館」である。
その名の由来は、ある時ここを訪れた山岡鉄舟(元幕臣。近藤たちが浪士組に参加して上洛した時の浪士取締役)
が命名し看板に揮毫したと伝えられている。「撥」という字は「とりのぞく」という意味を持っているが、「撥雲」という館名は
暗雲を取り除くという意味で、当時の世相からみてうなずけるものがある。撥雲館は、その後手狭になったため、門下生の
協力で昭和七年(一九三二)北側空地に改築し、盛大な道場開きが行われた。しかし、勇五郎は翌年八十三才で
亡くなった。その後も道場は門人たちの手で維持され、昭和五十年代まで稽古が続けられていた。大平洋戦争が始まり、
調布飛行場の建設に伴う勇五郎宅取壊しの際にも、門人たちの熱意によって、道場は勇五郎の娘の嫁ぎ先である
東隣の峯岸家の土地に移築された。さらに戦後になって、人見街道の拡幅のため再移転する時、再び近藤家敷地内の
現在地に移築され、今日に至っている。 |