Japanese Castle

犬山城

犬山城について

 織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって建てられ、戦国時代には何代か城主が変わり、1600年の関ヶ原の合戦の 頃を中心に城郭は整備されていった。小牧長久手の合戦の際に豊臣秀吉が大阪から12万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に 陣を敷いた徳川家康と対峙した。江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正正成が1618年に城主となってからは成瀬家が代々 受け継いで明治に至った。1871年、9代目成瀬正肥の時に廃藩置県で拝上となり、櫓や城門など天守閣をのぞく建物はほとんど取り壊された。 明治24年の濃尾震災で天守閣の東南角の付櫓などが壊れ、それを修理する条件で再び成瀬家所有の城となった。その後伊勢湾台風などでも 被害を受け、1961年から4年間をかけて解体修理を行った。平成16年4月、財団法人犬山城白帝文庫が設立され、城の所有は個人から 財団法人になった。現在国宝に指定されている5城の中でも最も古い城である。
【現存天守】
 国宝に指定されている現存天守。外観3重、内部4階の望楼型の独立天守で、二階までの部分は天文6年(1537)に建てられたとされており、最も古い天守と言われている。天守の高さは、石垣部分5m、総高24m程で規模はさほど大きくないが、木曽川のほとりの小高い山の上に建てられており、眺望が良い。

天守内部

【地階】
 天守閣入ってすぐの穴蔵部分。石垣の高さが5mと比較的低いのは室町時代の城の特徴でもある。太い梁が見られる。
【一階】
 一階部分は広さ150畳あり、上段の間、第一の間、第二の間、納戸の間の4室に区画されており、これらの部屋の周囲は2間巾の武者走りが取り巻いている。創建当時はここ一階の上段の間に城主が居住していた。
【一階 上段の間】
 ここが上記の上段の間。創建当時の城主の居間で、他よりも床が7寸高く張られ猿頬天井が貼ってあり、最もグレードの高い部屋となっている。この部屋の北側には武者隠しの間があり、城主を守る警護する武士の詰所となっていた。実際に城主が居住していた天守も珍しい。
【一階 石落しの間】
 西北の隅に位置する広さ4畳余りの石落としの間。石垣より外に突出して建てられているのが特徴。
【一階 付櫓】
 東南の隅の突出部に設けられている8畳ほどの付櫓。突出部の下段には3個所の連子窓があり、それぞれ遠くまで見渡すことが出来る。明治24年の濃尾地震で壊れ、石垣だけとなっていたが成瀬家により復元された。
【二階】
 2階中央はは広さ144畳程の武具の間となっており、三方に武具棚が設けられ、武器武具庫に使用されていた。一階同様、武具の間の周囲を2間巾の武者走りが取り巻いている。
【三階】
 外観2重目の屋根裏にあたる階。南北に唐破風、東西には入母屋破風を配置してあるが、築城当初は唐破風は無く、元和4年(1618)から70余年をかけて成瀬城主が装飾として増築したものと伝えられている。
【四階 高欄の間】
 最上階にあたる広さ28畳程の四階部分。四方に約半間の高欄と廻縁が巡らされた格式の高い造りで、非常に展望が良い。この部分も成瀬氏による増築と言われている。