【史跡小牧山】
小牧山は濃尾平野に孤立する標高89.5m、総面積約21hr程の小さな山で1563年に織田信長が美濃攻略の戦略拠点として 清洲から居城を移し南麓に尾張の政治経済の中心地として計画的な城下町を整備したのが始まりである。 その当時は山を取り囲んでいる土塁はなく、帯曲輪地区は堀などで区画された多数の曲輪に分かれていた。 東南隅には堀と土塁で囲まれた一辺75mの最大規模の武家屋敷が配置され、北へ向かって1辺45m程の同規模の 武家屋敷が連続して位置されていた。しかし、4年後には美濃の斉藤氏を攻略し稲葉山城(現在の岐阜城)に移った為、 小牧山城は4年で武家屋敷と共に廃城となった。 その後、本能寺の変で没した信長の後継者争いに起因する1584年の小牧・長久手の合戦で、犬山から清洲を目指して 攻め込もうとする羽柴秀吉軍の軍勢に対して織田信雄・徳川家康の本陣が置かれ、その際に家康により大改造された。 土塁を高め、堀を深くするなどの防御工事は僅か5日間で完成したと言われている。 また、麓の帯曲輪地区と現在呼ばれている土塁の内側には平地が分布し、多数の軍勢を収容する機能があった。 結局、この時は約8ヶ月にわたり膠着状態が続いたが、この付近で大規模な合戦はおこらず、半年後には両軍共に 撤退し小牧山城はその後使われることはなく、現在小牧山に残る城の遺構は、この時の姿と考えられる。 江戸時代には尾張徳川家の管理下で一般の入山禁止などの保護がされた為、以降の保存状態は良好で合戦当時の城の 遺構が良く残っており、昭和2年には国の史跡に指定され徳川家から小牧町(当時)へ寄付された。 平成10年からは東麓にあった中学校の移転に伴い、発掘調査が始められ平成13年からは遺構復元等の史跡整備が 整備工事が進められた。主として小牧・長久手の合戦当時の土塁や曲輪を復元整備されたが、部分的に信長時代の 武家屋敷の堀や井戸も部分的に復元している。その後平成16年4月から史跡公園として公開されている。

【本丸跡と天守閣】
小牧山山頂のかつての本丸跡の周囲には石垣の跡が部分的に残っている。 現在はここに鉄筋コンクリート3層4階建て、高さ19.3m歴史館が建てられている。 これは、昭和43年平松茂翁が私財を投じて建設し小牧市に寄付されたもので、秀吉が京都にたてた飛雲閣 (現西本願寺内)をモデルにして建てられた。館内は文化財などが展示されている。

【土塁】
小牧山城が築かれた時代には土塁で敵の侵入を防ぐのが一般的であり、ここで石垣が見られるのは山頂の 西側のごく限られた部分のみである。土塁は堀を掘った土を積み上げて築く為、堀とセットになっているのが普通で、 小牧山城の土塁は堀の底からの高さが5m以上におよび外側が急傾斜になっていて上りにくい構造をしている。 一方、内側の傾斜は緩やかで、城兵が土塁上に登りやすくしていた。この土塁は1584年の小牧・長久手の合戦の際に徳川軍が築いたものである。

【井戸】
織田信長の時代には武家屋敷が建てられていたところで、小牧・長久手の合戦時に屋敷跡を壊して 堀が掘られ、土塁が造られた。 この信長時代の武家屋敷の井戸は土塁の下から発見された。 井戸は素堀りで、直径約2m、深さは3.2m以上で、底に近いあたりには井戸枠がはめられていた。 井戸は武家屋敷の廃絶時に人為的に埋められ、井戸枠材は一度引き抜いてから井戸の中へ まとめて投げ捨てられていた。 井戸の上部構造は発掘調査で明らかにはできないため、同時代の絵図を元に推定復元したもの。