名古屋城
大永年間(1521~1528)の初めに今川氏親により現在の二の丸あたりに築かれたのが始まりとされ、
その後、織田信秀が居城し、信長はここで産まれたと言われている。当時は那古野城と呼ばれていた。
現在見られる城郭は江戸初期に徳川家康により築かれたもので、東海道の要所として、
また大阪方への備えとして、家康が築いた城の中でも江戸城や二条城などと共に有数の大城郭となった。
また、最後の大城郭でもあり近世城郭御殿の最高傑作として歴史的意義は極めて大きい。
築城は慶長15年(1610)に始まり、加藤清正、福島正則、前田利光などの諸大名に分担され、
慶長17年(1612)に天守閣や諸櫓が完成し、同20年に本丸御殿が完成した。
その後、明治維新を迎えるまで徳川御三家の筆頭 尾張家の居城として栄えた。
明治維新以降は名古屋鎮台が置かれ陸軍省の管理となり、明治26年には本丸や西の丸などが
宮内省に移管され名古屋離宮となった。昭和5年に名古屋市に下賜された後は
天守閣や本丸御殿は国宝として保存されてきたが、昭和20年5月の空襲により大小天守閣、
本丸御殿ををはじめとする多くの建物が焼失した。焼失を逃れた3つの隅櫓と3つの門、
御殿障壁画1047面が国の重要文化財に指定されている。
昭和34年に大小天守閣と正門は昔通りの外観で再建された。
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復元天守
【復元天守】 |
五層五階の大天守と二層二階の小天守閣を橋台でつないだ連結式天守閣。設計段階では大天守の
西面にも小天守閣を設ける予定だったらしく、石垣上部に出入口の跡が残されている。
小天守の出入口も西側に設計されていたが、途中で現在の位置に変更された。
石垣内部にも当初の出入口の跡が残されている。昭和20年5月の空襲により、大小天守閣本丸御殿を
はじめとする多くの建物が焼失し、現在の天守閣は昭和34年に鉄筋コンクリートで再建されたもの。
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【天守台石垣】 |
天守の石垣は加藤清正によって築かれたもので、この扇勾配は特に清正流三日月石垣と言われている。
また、4箇所の隅石には銘石を使用し、担当した家臣の名が刻まれており、東北隅北面石には
『加藤肥後守内小代下総』と刻銘されている。
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【小天守】 |
大天守の南に連結する小天守。大天守とは橋台で繋がれ、大天守に入城するには
小天守を経由する仕組みになっていた。
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【天守内部】 |
昭和34年に再建された天守閣内部は現在博物館となっており、
戦災焼失を免れた装飾や武具、ジオラマなどが展示されている。
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【天守内部 金鯱】 |
天守内部に展示されている金鯱のレプリカ。名古屋城の金鯱は尾張名古屋のシンボルとして
昭和まで伝承されてきたが、戦災により天守閣と共に焼失した。
現在の金鯱は昭和34年に天守閣と共に再建されたもの。
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【天守内部 井戸】 |
天守内部に展示されている井戸枠。慶長15年の築城の際に加藤清正により御用水として掘られたが、
水が濁っていたため、清くなるように数多くの黄金を水底に敷いたところ、清水となり
それ以来黄金井戸と呼ばれた。玉子形桶輪の囲いは黄金井戸の水底で発見された。
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【剣塀】 |
大天守閣と小天守閣とを連絡する橋台には、通路の防備として土塀を設け、その外部に面する西側には
忍返しとして軒桁に30cm程の槍の穂先を並べられている。このような剣塀は不明門にも見られる。
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本丸
【本丸御殿跡】 |
本丸のほぼ中央に建てられた大規模な護展で、当初は尾張藩主義直の居館とともに
藩の政庁として使われていた。その後、将軍が上洛する際の宿館となり、寛永11年には
最も豪華な上洛殿が増築され、家光もここに宿泊した。
二条城二の丸御殿と並ぶ書院造りの貴重な建物だったが、戦災により焼失した。
その後、礎石のみが残されていたが、2015年に再訪した際には再建されていた。(写真下)
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【本丸 西南隅櫓】 |
未申櫓とも言われ、屋根二層、内部三階の櫓。外部に面した西南両面には石落としを設け、
屋根は千鳥破風となっている。この櫓は、濃尾大地震で石垣と共に崩壊したが、
大正12年に宮内省により修理復旧されたため、鬼瓦などに菊家紋が見られる。
現在、重要文化財に指定されている。
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【本丸 東南隅櫓】 |
辰巳櫓とも言われ、その規模と構造は西南隅櫓と同じだが、石落としの破風の形が違う。
この櫓は創建当時の姿を伝えるもので、鬼瓦に葵の門が見られており、重要文化財に指定されている。
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【本丸 表二之門】 |
かつては南二之門と呼ばれ、本丸大手枡形の外門にあたる門。内門である表一之門とともに
枡形を構成していた。本瓦葺きの高麗門で、門柱や冠木は鉄板張りで用材は木割が太く、
堅固に造られている。また、袖塀は漆喰塗り籠めの土塀で鉄砲狭間も設けられており、
現存する名古屋城創建時の数少ない建造物。重要文化財に指定されている。
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【本丸表一之門跡】 |
本丸大手枡形の内門にあたる門があった場所。現在は残っていないが、当時は表二之門とともに
枡形を構成していた。入母屋造り、本瓦葺の三間一戸脇戸付櫓門で、石落としも設けられていた。
また正面下層は柱、冠木、扉ともに一面鉄板で覆われ、扉は脇戸共に堅格子板張りの堅固な構造と
なっていたが、昭和20年の空襲により焼失した。
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【不明門】 |
本丸北側の土塀の下をくぐる埋門で、本丸御殿の大奥へ通じる秘門でもあった。
常に鍵が厳重に施されていた事からあかずの門と呼ばれた。外側の塀は大小天守を結ぶ土塀同様、
剣塀となっている。昭和20年の空襲で天守閣などとともに焼失したが、昭和53年に
原形の通りに再建された。
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【旧二之丸東二之門】 |
東鉄門とも言われ、もとは二之丸の東門の枡形の外門だったが、昭和38年に体育館が
建設されるにあたり解体、保管されていた。その後、昭和47年に本丸東二之門跡へ移築された。
形式は高麗門で本瓦葺き、軒回りは漆喰塗り籠めとし、柱、冠木、扉などには帯鉄を打ち付けられている。
重要文化財に指定されている。
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【東一之門跡】 |
本丸搦手にあたる東枡形門の内門があった場所で、東二之門と共に枡形を形成していた。
構造は屋根入母屋造り本瓦葦、上層は総塗籠造り右脇小門の開戸付きの櫓門で、
表一之門と殆ど同じ構造だったが、昭和20年の空襲で焼失した。
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【清正石】 |
本丸搦手の東枡形門の石垣に使われている名古屋城で最大の石垣石材。
この辺りは黒田長政の丁場だったが、巨石だった為に築城の名手である
加藤清正が運んできたと言われている。
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【本丸周囲の内堀】 |
方形の本丸の周囲は全周にわたり空堀が残っており、中には何故か鹿が飼われていた。
石垣修復工事の為、解体された石垣が仮置きされていた。何でも2000m2以上の石垣を解体修理するらしく、
作業は10年以上も続いている。
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【石垣刻印】 |
天下普請の名古屋城の石垣は20の大名により分担して築かれた。その際に諸大名が
自分の運んだ石を他大名の石と区別するために刻んだ目印が至るところに見られる。
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西之丸
【正門】 |
西之丸の南西に位置する正門。明治43年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されたが、
戦災により焼失し、現在の門は昭和34年に天守閣と共に再建されたもの。
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【榧の木】 |
西之丸に築城以前から自生する榧の木で、樹齢600年以上と言われている。
高さ16m、幹回り8mの名古屋市内唯一の天然記念物で空襲によって被災したが、樹勢を取り戻した。
初代藩主徳川義直が大阪へ出陣の時や、正月にこの実を盛ったと言われている。
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【西之丸土塁】 |
西之丸の南側、外堀に沿って土塁が残っている。西之丸内、本丸の表門の正面には、
当時は馬出しが設けられていたらしいが、明治期になり堀が埋められ現在は跡形もない。
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二之丸
【二之丸】 |
元和3年(1617)に二之丸御殿が竣工し、元和6年(1620)には初代藩主徳川義直が本丸御殿から移った。
以降、藩主の殿舎であるとともに政務の中心となり、多くの建物が建てられた。
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【二之丸庭園】 |
元和年間の二之丸御殿の造営に伴い聖堂を中心として設けられたが、享保以降度々改修され
枯山水回遊式庭園に改められた。
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【二之丸庭園 霜傑亭】 |
旧二之丸庭園には6つの茶席があったが、中でもこの霜傑亭は最大の規模の物で、数寄屋造りの建物だった。
発掘調査の結果、「御城御庭絵図」とほぼ一致する霜傑亭跡が確認された。
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【北暗渠】 |
「御城御庭絵図」にある御庭の外側の暗渠式排水路の遺構が、発掘調査したときのままの状態で整備してある。
絵図によれば、この付近には花壇があり、雨水を引き入れる「水道石樋」の遺構と認められる。
現在もここにたまった雨水は石樋を通じて堀に注いでいる。
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【二之丸東庭園】 |
二之丸東庭園は文政年間に大改造され、「御城御庭絵図」によると、広大な規模であった事が分かる。
明治の初めに陸軍鎮台分営(第三師団)が郭内に建築される際に池を埋めるなどの兵営化が進められ、
多くの建物が壊された。昭和50年に絵図に基づいて発掘調査が行われ、昭和53年4月に「二の丸東庭園」
として開園した。
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【二之丸 南池】 |
「御城御庭絵図」には池の北岸に大きな舟形の一枚岩が張り出し、中央部に石組みの島が描かれている。
発掘調査では一枚岩は確認できなかったが、島は現在の池の中の三ツ石の下にあると推定されている。
池は絵図に描かれている物よりも大きく、頑丈に石組みした深い池で、他に例を見ない規模だった。
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【二之丸 大手二之門】 |
二之丸西側にある枡形の外門にあたり、内門である大手一之門とともに西鉄門と言われ、
二之丸正門を形成していた。枡形御門とも言い、一間一戸、屋根切妻造本瓦葦の高麗門だった。
国の重要文化財に指定されている。
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【二之丸 東門】 |
二之丸東側の枡形門跡。枡形の石垣は良く残っているが、ここに建てられていた門は、
昭和38年に体育館が建設される際に解体され、その後、昭和47年に本丸東二之門跡へ移築された。
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【二之丸 埋門跡】 |
二之丸庭園の西北の位置にある埋門跡で、危急の場合の城主の抜け道として造られた。
この門をくぐり、垂直の石段を降り、堀を渡って対岸の御深井丸を通り木曽路に行くルートが
極秘の脱出路とされていた。
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【鉄砲狭間】 |
二之丸御殿北端の練塀の遺構で、「南蛮たたき」で固められ非常に堅固に造られている。
また、練塀に設けられた円形の鉄砲狭間は、非常に珍しく貴重な遺構。
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【清正の石曳き】 |
二之丸と西ノ丸の間付近に建てられた清正の石曳き像。慶長15年、加藤清正が徳川家康に
願い出て天守閣の石垣工事を施工した際に、石の上に乗り気勢ををあげたと伝えられている。
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御深井丸
【御深井丸】 |
本丸の北西に位置する曲輪で、このあたりはかつて沼沢地だった為、築城の際に生松などを
埋め敷いて築きあげたと言われている。当時は武器庫、塩蔵などがあった。
また、西北には西北隅櫓、乃木倉庫などがある。
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【御深井丸 西北隅櫓】 |
御深井丸の北西隅に現存する三重櫓。清洲城から名古屋城に移転した際、清洲城天守の用材を
利用したと言われており、清須櫓とも呼ばれている。実際に移築の痕跡も見つかっており、
規模も他の小規模な天守を凌いでいる。
三層三階で最上層は入母屋造り本瓦葺で、一階の外壁回りには西面、北面に出張った石落としが
設けられている。現存する他の隅櫓と違い、内側の東面、南面にも千鳥破風を設けているのが特徴。
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【乃木倉庫】 |
御深井丸に明治初期に建てられた倉庫。当初は旧陸軍の弾薬庫として建てられたが、
昭和20年の名古屋空襲の際、天守閣、御殿等が焼失した際、本丸御殿の障壁画や天井絵の大半は
外してここに保管されていたため、被災を逃れた。
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【天守閣礎石】 |
名古屋城天守閣の基礎土台石。昭和34年の天守閣再建の際に、御深井丸の一角に移された。
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【石室】 |
島根県松江市山代町にあった団原古墳の石室が何故か御深井丸の一角に設置されている。
古墳時代後期の出雲地方独特の横穴式石室で、本来は床石があり手前に通路を備えていたらしい。
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外堀
【外堀 北側~西側】 |
北側から西側にかけての外堀は現在も水堀として残っており、堀幅もかなり広い。
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【外堀 南側~東側】 |
南側から東側にかけての外堀は現在空堀になっている。
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【鵜の首】 |
本丸周囲の各曲輪の間は、防衛の為に堀が深く入り込んでおり、鵜の首と呼ばれている。
名古屋城には5箇所の鵜の首が残っている。写真左は西之丸と御深井丸との間、
写真中は御深井丸と二の丸の間、写真右は二の丸と西ノ丸の間の鵜の首。
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