Japanese Castle

稲村城

稲村城について

 前期里見氏の本拠として、安房国の統治の中心だった城。天文3年(1534)の里見家の内紛(天文の内乱)により 里見氏の嫡流だった里見義豊が討たれ、後期里見氏の祖となる里見義堯が本城を移し、廃城になったと考えられている。
【東の水往来】
 東側山麓の民家の脇から続く東の水往来。何故水往来と呼ばれているのかはよく分からないが、 切り通しの登城路と言った印象。当時は水が流れたりしていたのだろうか?
【東の水往来 石積】
 基本的には岩を掘り下げて通した切り通しと思われるが、所々に石積みのようなものも見られる。
【東の水往来 石積】
 一部虎口のような切り込みが見られたが、位置的にも少し不自然。この周辺の腰曲輪は今でも畑として利用されているので、 最近になって削られたものかもしれない。
【東の水往来 上部】
 水往来の上りきった尾根と交わる部分は、掘切を兼ねた見事な切り通しとなっている。水往来が登城路として 使われていたとすれば、このあたりに門があったかもしれない。
【正木様】
 水往来を上りきった尾根上の曲輪にある祠。正木氏の子孫が先祖を祀るために建てたと言われている。 現在も周辺に正木家が5軒程あるらしい。しかし、城主の『里見様』はなくて良いのか?
【中郭部】
 『正木様』の西側の腰曲輪周辺が中郭部。尾根に守られたかなりの広さの曲輪が数段続いている。
【中郭部~主郭】
 正木様から主郭までは、尾根上にいくつかの曲輪沿いになだらかな道が続く。西側は比較的急傾斜だが、 東側は腰曲輪が続くなだらかな地形で、比高もあまり無いので地形的にはあまり要害には見えない。
【ヤグラ】
 この地域でよく見る『ヤグラ』と呼ばれる横穴墓。主郭の南下にある。
【主郭南側掘切】
 主郭の南側、登城路との間を隔てる掘切。明瞭に残っている。
【主郭西側虎口】
 主郭の西側に設けられた虎口。どこまでが当時の遺構かはっきりしないが、やや枡形っぽくも見える。
【主郭】
 山頂の曲輪にしては、かなり広大な主郭。南側~西側にかけて高さ2m程の重厚な土塁が残っている。
【主郭 廃墟?】
 主郭内に設置されたトイレ(写真左)とブランコ(写真右)。廃墟感が半端ない。
【主郭からの眺め】
 それ程比高はないものの、主郭からは北の滝田城方面が見渡せる。
【主郭東側虎口】
 主郭東側、土塁の横にも虎口のような遺構が見られる。
【主郭東側掘切】
 上記の虎口から主郭の東側に出たところにある掘切。東側の尾根と本丸を断ち切っている。 こちらも南側同様、形良く残っている。
【主郭東側掘切】
 さらに東側の尾根を進むと、もう一本掘切が見られる。こちらは比較的なだらかなので、結構頑張ってる感がある。
【帯郭】
 主郭の北側には細長い帯曲輪のような場所があるが、普通の搦手道にも見える。 下っていくとそのまま山麓の線路に出る。
【西の水往来】
 中郭部付近まで戻り、今度は西の水往来へ。東の水往来以上に、岩盤を掘削した跡がはっきりと見える。 相変わらず水往来とはよく分からないが、こちらも役割としては登城路を兼ねた掘切っぽい。

【貴船神社】
 西の水往来を下った山麓にある貴船神社。社殿の敷石には宝篋印塔の一部が使われているらしい。
【南側腰郭】
 南側尾根にも数段の腰郭が見られる。こちらは藪に阻まれて見にくいものの、土橋のようなものも見られた。
【ヤグラ】
 南側尾根に残るヤグラ。こちらはかなり規模が大きい。
【城域南西側】
 中郭部から城域の南西方向には尾根が続く。このまま尾根伝いに白浜城まで行けるとか。 と言うことで、こちらも掘切のようなものがいくつか見られるが、何しろこの辺りは今でも農地として利用されているので、 どこまでが当時の遺構かはよく分からない。

【矢竹】
 当時植えられたものかは分からないが、矢竹も生えている。
【五輪の塔】
 東側尾根下に残る五輪の塔。崩れ落ちて荒れ果ててしまっている。誰のものかは分からない。
【水神森】
 城の東側にある水神森。森と言ってもエノキの木が一本あるだけだが、義豊の首がここに埋められていると言われている。