久留里城・本丸跡
【二の丸~本丸】 |
本丸と二の丸との間は細長い土橋状の尾根道で接続されており、両側は急崖になっている。
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【天神曲輪】 |
上記の尾根道を渡った場所、本丸側に設けられてた曲輪で。本丸の入口を守っていた。
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【本丸跡】 |
標高145m、比高100m程の急峻な山上に位置する本丸跡。二の丸からは少し奥まった場所に位置し眺望もあまり良くない事もあり、城の中心と言うよりは、どちらかというと詰めの城的な雰囲気に見える。現在は模擬天守が建てられている。
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【天守台】 |
本丸の中央部には、寛保3年(1743)から延享3年(1746)にかけて黒田直純が城を再築した際に築いたと思われる天守台の土壇が残されている。発掘調査の結果、外側は3間(5.4m)×5間半(9.9m)の長方形、内側は2間(3.6m)四方の正方形の二重の礎石が検出されており、絵図とほぼ一致している。
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【天守】 |
天守台の横には現在、鉄筋コンクリート造りの三層三階の模擬天守が建てられている。黒田氏の頃に建てられていた天守は、絵図などから二層二階の望桜風天守に類似していたものと思われる。そこまで分かっているなら、二層二階で復元すれば良かったのにという気もするが、少なくとも、この模擬天守を建てるために天守台などの遺構を破壊しないように気を遣っているのは良かった。
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【土塀跡】 |
本丸の周囲に残る土塁っぽい遺構からは漆喰や粘土の塊が認められている事から、近世になって築かれた瓦聲き、塗龍の土塀が崩壊したものと考えられている。実際に寛保3年(1743)の絵図には高さ6尺(1.8m)の土塀が描かれている。また、絵図には本丸の前面のみしか描かれていないが、発掘調査の結果、天守の裏側にも築かれていた事が確認された。
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【櫓台】 |
本丸南側に残る重厚な土塁。この土塁上には南側の怒田方面を守る櫓が建てられていたものと思われる。
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【男井戸・女井戸】 |
本丸下に掘られた溜め井戸で、山城の貴重な水源だった。奈良時代の僧、良弁によって掘られたと言われており、当初は『金剛水』『胎蔵水』と呼ばれていたらしいが、江戸時代になると藩士の結婚式の際に新郎・新婦がこの水を飲み、夫婦の誓いをかわしたと言われているため、この名前がつけられている。
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【弥陀曲輪】 |
本丸南側に設けられている腰曲輪。周囲は、粘土質の地層をほぼ垂直に削りだした垂直断崖になっている。
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【波多野曲輪】 |
本丸の西側に突き出した波多野曲輪。他の曲輪同様、山上の小曲輪で居住性はあまりない。
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