関宿城


【関宿城】


【模擬天守閣】
 関宿城の天守閣は江戸城の富士見櫓を模して1671年(寛文11年)に建造され、1874年(弱治7年)頃取り壊されたとの 古記録が残っている。現在の模擬天守閣も、この記録等に基づき現在の江戸城の富士見櫓を模して造られた。 内部は博物館になっており『河川と産業』などが展示してある。


【本丸跡】
 博物館の南500m程のスーパー堤防脇にわずかに残る本丸跡。明治以降の江戸川改修工事で、殆どの遺構は堤防の 下に埋もれてしまっており、現在では数少ない現存する遺構となっている。

【本丸土塁 堀跡】
 本丸の土塁には横矢がかけられており、周囲は堀跡と思われる低地になっている。


【スーパー堤防】


【実相寺】
 神亀年(724年)に行基により、創建された日蓮宗の寺。長禄元年(1475年)頃、古河公方足利成氏の 重臣であった簗田氏が関宿城に入城した時、当山は水海より関宿の地に移された。 境内には、明治4年(1871年)に関宿城本丸の一部の建物(宝歴六年(1709年)に建造)を移築した 客殿があり、これは千葉県で唯一現存する本丸の建物である。また、江戸中期以後、明治まで関宿城主であった 久世家の香華院(菩提寺)であったため、久世家歴代の城主と奥方の位牌が安置されている。墓地内には、 関宿藩の家老職を勤めた富田家・奥原家・亀井家など久世家関係の家臣をなどの墓もある。


【埋門 小林家門】
 関宿城内の佐竹門・辰の門の間にあった埋門を明治8年、城の破却と同時にここ小林家に移築したものである。 特に名称は無く、通称四つ足門と呼ばれている。現在も約8間半(15m30cm)ほど移築当時のままの状態で残されている。 なお、埋門というのは、長屋門のように常時兵士が駐屯しているような門ではなく、重厚に作られていないため、戦が始まると 入口{戸)や塀の内側を土で埋め、敵の侵入を防いでいた。 屋根の鬼瓦には、江戸時代中期〜明治に至るまで代々関宿藩主を務めていた久世家の定紋(丸に堅鷹の羽2本が 確認できる。現在千葉県内で城の構造物が残されているのは、関宿城のものが2つあるのみで、この門はその内のーつである。


【関所跡】
 関所跡の碑と石垣。石垣は元関宿小学校の塀に利用されていた。


【関宿落とし】
 家老船橋随庵が開削した運河。


【処刑場跡】
 江戸時代の処刑場跡と伝えられている。石碑はもともと小高い土手の上にあったが、今では土手が削られて現在ような形になった。 石碑には南無妙法蓮華経と刻まれており、また側面には享和元年(1801)とあるので、石碑の建立年代は、この時であったと思われる。 しかし処刑場がこの年代に出来たのか、それ以前にあったのかは、判然としていない。またこの処刑場に関しては別な話も伝わっており、 実際に処刑したのはここではなく、もうと西の利根川べりで、ここには首だけ持ってきて埋葬した場所だという話もある。


【路分け六地蔵】
 享保2年2月(1717年)につくられた後背型丸彫り六地蔵で、石碑に「二年丁酉二月」と彫られている。これは享保の時代を 表している。側面に「左・木間ヶ瀬・右・江戸道、ほうしばな」とある事から、路分地蔵といわれるようになった。 今でもこの三叉路と路分け地蔵が立つ場所は、当詩のままの姿で残っており、またこの付近の道筋も変わっていない。