館山城
館山城について
戦国時代の房総に君臨した里見氏の居城。里見氏はもともと上野国の出身で、現在の群馬県高崎市(旧榛名町)の里見から、
戦国時代初頭に安房に来たらしい。豊臣秀吉の時代はここを拠点に栄えたが、江戸時代に入り慶長19年(1614)9月、
安房国十代の里見忠義は安房領地を没収され鹿島三万石の替え地として倉吉(鳥取県倉吉市)に移され、八年後29才の若さで亡くなった。
房総における里見氏終焉の地でもある。
なお、忠義と八人の家臣の墓は倉吉市の大岳院にあり、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』のモデルと言われている。
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【模擬天守】 |
現存天守の犬山城を模して建てられた天守。すっかり館山城のシンボルとなっている感があるが、
本丸から天守台などは見つかっておらず、残念ながらこのような白亜の天守はなかったと思われる。
内部は館山市立博物館になっている。
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【本丸跡】 |
現在、本丸跡には近年改修された浅間神社が建てられ、その近くには『里見城跡』の石碑があるが、遺構は残っていない。
と言うのも、本丸は 戦時中に改変され、7m掘り下げられてしまっているらしい。
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【本丸からの眺め】 |
本丸跡からは館山港、館山平野その先には富士山まで見える要所。18世紀初頭の地震で隆起するまで、
海岸線はもっと近かったらしい。
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【本丸腰曲輪】 |
本丸の西側の腰曲輪。この辺もどこまで改変されているかは分からないものの、ある程度は当時の腰曲輪の跡と見て良さそう。
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【二ノ丸跡】 |
本丸の南側に位置する二ノ丸にあたる曲輪。千畳敷とも呼ばれている。本丸を削平した際の土で埋め立てられたと言われ、
発掘調査の結果、二十四畳程度の建物跡が見つかった。現在は、日本庭園・茶室などになっている。
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【厩屋跡】 |
南側の入り江状の斜面上に段々に削平された厩屋跡。現在は梅林になっている。
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【南尾根に残る堀切】 |
南側の尾根を断ち切る堀切跡。規模も大きく、館山城に残る数少ない明瞭な中世城郭の遺構。
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【南尾根に残る腰曲輪】 |
掘切の先の南側の尾根には連続する馬蹄状の小さな曲輪が残っている。本丸付近は模擬天守が建てられていたり、
遺構が殆ど残っていないが、この辺りを見ると、やはり里見氏の中世城郭だったことが実感出来る。
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【垂直削崖】 |
南尾根の腰曲輪の周辺には、随所に里見氏得意の垂直削崖も見られる。
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【鹿島堀跡】 |
東側の駐車場近くに残る堀の跡。城の南東部から北にかけて東側を巡っていたと推定されている。城の東側には四つの小丘陵があって
「出郭」となり、鹿島堀と、その東を流れる汐入川が、二重の堀となって館山城を防備する形になっている。館山城は、
里見氏の九代義康・十代忠義が近世切頭の二十数年間居城としたところで、鹿島堀は関ヶ原合戦の恩賞として、常陸国鹿島郡に三万石を
加増されたとき、その領民に掘らせたと伝えられている。しかし、慶長十九年(一六一六)に里見氏が伯耆国(鳥取県)へ国替えとなると、
館山城は取り壊され、鹿島堀も埋めもどされた。現在慈思院前に現存する堀と、御霊山の東縁を巡る空堀が確認されているが、
昭和五十九年三月の発掘調査により、公園駐車場下にも幅37m深さ2mの堀跡が確認されたらしい。
堀跡からは、多量の木材が出土しているが、これは館山城取り壊しに際して掘に埋められた建造物の一部とみられている。
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【八遺臣の墓】 |
城域の南端にある『八遺臣の墓』。滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』のモデルとなったと言われている八遺臣の墓。
もはやどこまでが作り話かよく分からなくなってくる。
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