臼井城跡



【臼井城跡】
image-1  永久二年(1114)に千葉常兼の三男常康が臼井の地を治め、以降16代約450年間にわたり この地の領主となった臼井氏の中興の祖といわれる第6代城主興胤により14世紀中頃に 城の基礎が築かれたと言われている。 文明11年(1479)には太田道灌に攻められ7ヶ月に及ぶ篭城戦を行っており、 また永禄9年(1566)には上杉輝虎(謙信)に攻められるも守り抜くなど、 かなりの堅城だった。特に謙信は1ヶ月攻撃しても攻め落とすことができず、 本丸へ総攻撃をかけた結果、数千人の死者を出して、この負けを期に裏切るものが 相次いだと言われている。 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻め支城攻略戦で徳川軍に攻められ落城し、 当時の城主の原氏は小田原北条氏、千葉氏と共に没落した。 同年、徳川家康家臣・酒井家次が3万石で入城したが、文禄3年(1593)の 城内での火事により多くの建物が焼失し、慶長9年(1604)には酒井家次が 上野国高崎藩に移封となり廃城となった。 現在も本丸、ニノ丸を中心として、往時の空堀、土塁等の遺構が良く残っており、 城址公園として整備されている。


【本丸 空堀】
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 現在、駐車場となっている場所は、本丸西側の空堀だった場所で、 本丸との高低差は15m以上あり、かなり規模の大きい空堀だった事が分かる。

【本丸 土橋】
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 本丸東側、二の丸との間の空堀に架けられた土橋。当時は幅2m程だったらしいが、 公園化するにあたり盛土で覆われて舗装され、現在は倍以上の幅になっている。

【本丸 空堀】
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 駐車場とは土橋を挟んで反対側の空堀跡。埋め戻されているらしく、当時に比べると だいぶ浅くなっているようだが、幅は20m近くありこちらもかなり厳重に守られていた。

【本丸東側虎口】
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 土橋を渡った所に設けられた本丸虎口。両側には櫓台と思われる土塁が残っており、 北側には祠が建てられている。

【本丸】
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image-1  舌状台地の先端部にあたる本丸跡。周囲はしっかりと切岸加工され、周囲には低い土塁 (一部土嚢になっていた)も残っている。また、発掘調査により、十五世紀の中国・明時代の 陶磁器の破片や、城が火事になった時のものと見られる焼米なども発見されている。

【北側虎口】
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 本丸東側虎口のすぐ北側には、腰郭に下りる虎口が設けられ、その周囲は一段窪んでいる。 一見枡形の跡にも見えなくは無いが、後世の改変かもしれない。 もしくは西側部分とを仕切る堀だったかもしれない。

【本丸北西】
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 本丸の北西は独立した郭のようになっており、二の丸側には高さ2m程の土塁が残っている。


【印旛沼】
image-1  主郭の北側には印旛沼が見える。当時の印旛沼は香取海といわれる大きな内海で、 湖畔は城のすぐ近くだったらしい。印旛沼の反対側には支城の師戸城がある。


【北側腰郭】
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image-1  本丸の北側は2〜3段にわたり腰郭が設けられている。この辺りも丁寧に切岸加工されている。


【搦手】
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 本丸の北側、腰郭の東側を通る搦手。当時はここから印旛沼の湖畔につながっていた。 本丸の虎口部分には、この地域には珍しい石垣が残っている。 ここ以外に、二の丸にも一部石垣があるらしいが、見つけられなかった。


【二の丸】
image-1 image-1  本丸の西側に位置する広大な二の丸。発掘調査の結果、二の丸は墓地があった場所に 後になって土盛をして造成された事が分かっている。臼井氏や上杉勢が攻めてきた 原氏の頃は本丸だけの構造だった可能性もある。

【二の丸空堀】
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 二の丸の周囲には、本丸同様低い土塁が取り囲み、その外側は鋭角に切岸加工され、 深い空堀となっている。空堀は現在藪になっているが幅も広くかなり規模が大きい。


【二の丸〜三の丸 土橋】
image-1 image-1  二の丸と三の丸とを隔てる空堀に架けられた土橋。現在は舗装され車道になっている。


【三の丸】
image-1 image-1  二の丸の西側に位置する三の丸。現在は畑になっており、 一角に太田図書の墓や妙見神社が建てられている。

【三の丸 太田図書の墓】
image-1 image-1  三の丸の南隅に建てられている太田道灌の弟・太田図書助資忠の墓。 文明11年(1479)道灌の弟太田図書助資忠と千葉自胤の軍勢が臼井城を包囲したが、 城の防備が堅固なため一旦引揚げようとした際、城兵が討って出て激しい戦いとなり、 図書外53名が討死した。


【三の丸 妙見神社】
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 三の丸の西に建てられている妙見神社。 臼井城築城の際、城内の鬼門に創建された社のひとつと言われているが、定かでは無い。 妙見とは北斗七星を神格化したもので、鎮護国家、除災寿福の菩薩である。 千葉氏一族にとってはその祖平良文以来の守護神で、その所領には必ず妙見を祀られている。 一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」はこの妙見に由来しており、神社の社紋ともなっでいる。