荏原城



【荏原城】
 戦国期、伊予の豪族河野家18将の首位だった平岡氏代々の居城跡。 土佐からの侵入を防ぐ拠点だったが、天正13(1585)年平岡道倚の時、 秀吉の四国統一により、道後湯築城とともに落城した。 土塁を周囲に築き、方形の平地で長さは約東西130m、南北120mの規模。 単郭ながら、周囲の水堀と土塁がほぼ完全な形で残っている。


【南側虎口】
 南側の土橋と虎口。現在は、かなり幅が広いが恐らく、農地利用のために一部 埋め立てられたものと思われる。

【南側土塁】
 南側虎口付近の土塁。車と比べると土塁の規模の大きさが分かる。一部大きく 削られてしまっている。

【東側土塁】
 南側〜東側に周辺の土塁は最も高く、高さ5m程あるが、外側は水堀によってかなり 浸食されており、一部土嚢で補修されている。

【北側土塁】
 内側の犬走りが残っている。この時期の城には多く見られる矢竹が植えられている。

【西側土塁】
 北側〜西側の土塁周辺は、最も良く犬走りが残っている。

【祠】
 西側の土塁上に建つ祠。

【西側 石垣】
 南西の土塁の一部には、石垣が残っている。

【西側 搦手】
 西側の土塁中央当たりに一段低くなった箇所があり、搦手とされているが、 実際にどのような虎口があったかは良く分からない。この程度の広さなら、虎口は 南側一箇所でも十分な気もする。


【南西隅櫓台】
 周囲を取り囲む土塁の四隅は高台になっており、当時は櫓が築かれていたと考えられる。 中でも南西の櫓台は、最も良く形状を止めている。

【南東隅櫓台】
 南東隅の櫓台付近には多くの石が転がっている。当時の石垣の名残かも知れないが、 詳しいことは良く分からない。

【北東隅櫓台】

【北西隅櫓台】


【水堀】
 市街地にも関わらず、幅の広いところでは20m近い水堀が見事に残っている。訪れた時は 水量が少なく、南側は空堀になってしまっていたが、普段は水をたたえているらしい。

【北側水堀】
 北側の堀幅が最も広く、20m程ある。

【西側水堀】
 西と東の堀幅は14m程。

【東側水堀】
 西と東の堀幅は14m程。

【南側水堀】
 虎口のある南側の堀が最も狭くは幅は10m程。