松山城



【二の丸】
 南側と西側には内堀があり、高い石垣と櫓や塀などで周囲が囲まれていた。 蒲生忠知の時代(1627〜1634)に完成し、当時としては全国的にも例がない 大井戸による消火設備も整っていた。明治5年(1872)の火災により焼失し、 現在は、国指定の史跡となっている。

【二の丸】
 二の丸の高石垣の上に、さらに石垣と櫓で囲われた部分が二の丸御殿。

【虎口】
 現在の二の丸入り口にもなっている南側の虎口。櫓門を抜け階段を上ると、左右に折れて さらに門がある、防備をしっかり意識した造りになっている。

【御殿跡】
 表御殿遠く御殿に分かれており、西南部にある奥御殿は、流水園として水と砂利で 当時の部屋の間取りが表現されている。

【大書院跡】
 御殿で最も重要な公式儀礼の場で、学問の講義、能、連歌など様々な行事が 行われていた。

【林泉庭】
 御殿の南東側にあるに林泉庭は、露岩を背景に池や滝が配置され、わびさびが 表現されているらしい。

【大井戸】
 縦横18m×13m、深さ9mの大井戸の遺構。当時は東半分が床下になっており、その上を 焚木之間が覆っていた。その基礎部分の木組みは現在も残っている。防火用水用の井戸として 使われており、火災の際には木桶で水をくみ上げ、三箇所の階段から迅速に水を運べるように 工夫されていた。発掘調査で帝政ロシア時代の金貨が出土している。

【薬医門】
 藩主が登城する際にも使われていた二の丸御殿の正式な門。庭園整備時に、天守の二ノ門を 模して薬医門形式で造られた。

【奥門】
 御殿の西隅に建つ奥門。地味に建っているが、こちらも薬医門。

【東側虎口】
 東側の虎口。当時からこのような造りだったかは分からないが、他と比べると、ここだけ 防備が薄い気がする。

【米倉】 【井戸】 【復元土塀】
 南西隅に復元されている米倉。  生活用水用の井戸。  御殿の周囲に復元されている土塀。