松山城



【黒門】
 三之丸から二之丸を通って本丸へと続く大手道の入口の門。門の左右の石垣上には 石落としや狭間が備えられた渡り塀が続いていた。平成19〜20年に行われた解体修理 により、江戸時代にも改修されていたことや、大規模に盛り土されていた事などが分かった。

【黒門〜栂門】
 黒門を抜けるとすぐに栂門が見える。この辺りには、藩士が登城する際に供のものを 待たせていた腰掛と呼ばれる建物が建てられていた。

【栂門】
 登城路は黒門で右に曲がり、この栂門でさらに左に曲がる。槻門までの100m程の 間に5度の屈曲があり、特に堅固な構えになっている。

【槻門】
 本丸大手への登城路と二之丸搦手への分岐点に位置する重要な門で、城内最大の 櫓門だった。南側は2階、北側は3階の櫓が建ち、門の上部には二重の櫓で繋がれた 珍しいものだったが、明治時代に取り壊された。

【槻門〜尾谷門】
 槻門の内側には桁行六間、梁間三間の規模の大きな番所がおかれ、20人が 配備されていた。ここから尾谷門までは西砲台がそびえている。

【西砲台】
 大手道の中でも最も重要な防御の要である槻門周辺を見下ろす位置にある西砲台。 石垣はかなりの高さがある。

【尾谷門】
 槻門を過ぎ、西砲台と二之丸御殿の間を抜けた所にある尾谷門。この門の西側が 西砲台、東側には登城路沿いの土蔵と東砲台が並んでいる。

【石垣】
 西砲台の上は現在は整備されていないが、建物跡と見られる石垣などが見られる。

【東砲台】
 西砲台と共に大手道を守っていた東砲台。西砲台に比べると規模は小さい。

【尾谷門〜中門】
 尾谷門でコの字に折れる大手道を進んだ先の平地には、番所や土蔵、鍛冶小屋などが 建ち並んでいた。土蔵には金、銀、塩、米、旗、鉄砲、大砲、鎧兜などが保管されていた。 明治5年の二之丸御殿の火事は、この土蔵の火薬が爆発した火事で類焼した。

【中門】
 別名塩見門。東砲台の上辺りにあった門。この辺りは当時の石畳や門の礎石がそのまま残されている。

【中門〜大手門】
 中門を過ぎると、七曲がりの石段を通り大手門に達する。


【東雲口】
 幕末につくられた登城路で、ロープウェイやリフトもある最も一般的な登城路。 老朽化に伴い、平成16年度に再整備されたが、その際の確認調査で麓の 東雲神社が幕末に建設された際の石垣なども検出された。


【古町口】
 当時の搦手にあたる道。大正の始め頃に広げられたが、人通りは少ない。


【県庁裏登城道】
 大正の始め頃に出来た登城道で、長者ヶ平に続いている。この登城道からは南側の 登り石垣がよく見える。また、水源調整地で発見された古墳などもこの道沿いにある。


【南側登り石垣】
 山腹からの侵入に備えるために、山上の本丸と山麓の二之丸との間に造られた 南北二本の石垣。登り石垣は松山城の他に彦根城や州本城にも見られるが、 その中でも最大の規模で、松山城を代表する遺構の一つ。 地形に合わせて巧みに横矢がかけられており、石垣上には渡塀や二重櫓が備えられていた。 現在でも南側の登り石垣はほぼ完全に残っており、総延長は230m以上に及ぶ。

【北側登り石垣】
 北側の登り石垣は、本丸のの乾門付近から西砲台までつながっていたが、明治時代 以降に破壊され、現在はごく一部しか残っていない。