Japanese Castle

越前大野城

越前大野城について

 天正3年(1575)に織田家の武将、金森長近によって築かれた平山城。見るからに城を築きたくなる感じの、 標高250mの独立丘である亀山に築かれている。山頂の本丸には天守も建てられていたが、安永4年(1775)の大火により消失し、 現在の天守は昭和43年に復元されたもの。 最近の城ブームでは、竹田城に続き雲上に見える天空の城としてちょっとしたブームになっている。
【南側腰郭】
 当時の登城路は東側からの百間坂のみだったらしいが現在はいくつかの遊歩道が設けられており、西側のの遊歩道から 登城すると最初に南の腰郭に出る。南北に細長い郭で、周囲には石垣が見られる。北側の掘切がしっかり残っている。
【南側登城路】
 上記の腰曲輪からさらにもう一段の郭を抜け、階段を直上すると主郭部が見えてくる。現在は公園化されているが、 思いの外急な坂道が続く。主郭部に近づくと、武具蔵の石垣が最初に見え、その横には城門が復元されている。
【天守曲輪南側堀切】
 当時からの登城路かは分からないが、お福池からは一旦南の武具蔵に上ってから掘切を渡って天守郭に上ることが 出来るようになっている。武具蔵と天守郭との間の掘切には、コンクリート製の橋が架けられ雰囲気はあまり良くないが、 しっかり残っている。ちなみに、ここの武具蔵には大筒も置かれていたことがあるらしい。
【お福池】
 城門を抜けた場所、天守台のすぐ南にあるお福池。独立丘の頂上付近にありながら、自然湧出しているらしく、 今でもしっかり水が溜まっている。金森長近夫人の名前から、お福池と呼ばれているらしい。
【天守曲輪】

 城のある亀山の最上部に位置する天守郭。城の本丸に当たる部分。周囲は石垣で囲まれているが、 復元天守を再建する際に積み上げられた部分も多いらしく、当時の遺構との区別が難しいが、野面積みの見事な石垣が見られる。
【復元天守】

 天守は安永4年(1775)に消失し、現在の天守は昭和43年に絵図などを参考に建てられたもの。 鉄筋コンクリートで建てられている事もあってか、案内板には謙虚に復興天守と書かれていたが、 外観は良い感じで復元と言っても良さそう。内部は資料館になっている。
【天守曲輪北側虎口】
 天守郭北側に設けられた虎口。古絵図を見る限り、三の丸から百間坂を上り、この北側虎口が友情の登城路だったと思われる。 2回折れ曲がる防御を意識した造りになっている。
【武者登り】
 上記の北側虎口の東側に設けられた『武者登り』と呼ばれる急勾配な階段虎口。急勾配な上に、こちらも2回折れ曲がる厳重な構造。 半分埋門のようになっており、まずこちらから攻めようという気分にはなれない。
【天守曲輪井戸跡】
 天守曲輪内、天守台のすぐ北側には井戸跡と思われる石組みが見られる。こんな最上部に?と言う気もするが、 お福池もしっかり水があったからなぁ。
【煙硝蔵】
 本丸の北西部の突き出た部分には煙硝蔵が建てられていたらしいが、現在は何も残っていない。 当時は貴重な火薬なので、本丸に厳重に保管されていたのだろう。
【金森長近像】
 大野城を築城した金森長近像が本丸北側に建てられている。金森長近は織田家の武将で、越前の一向一揆を 平定した功績により天正3年(1575)に信長から大野郡を与えられた。
【本丸石垣】
 本丸北東部、金森長近像が建てられている場所近くの石垣。苔むして良い雰囲気だが、当時のものかはよく分からない。
【麻木櫓跡】
 本丸の北東側一段下がった曲輪の東端には、麻木櫓が建てられていた。麻木櫓は古絵図によると山上にあった 4つの櫓の中で唯一の二階櫓だったらしい。現在は休憩所になっている。
【東側腰郭】
 その東側にも、さらに曲輪が続いている。現在は公園となっている。それにしても、この公園で遊ぶのは結構体力つきそうだな。
【本丸北側】
 本丸北側は結構な急斜面。この独立丘は見た目以上に要害だったっぽい。
【二の丸・三の丸】
 東側の山麓に位置する二の丸と三の丸。現在は小学校の敷地となっており、二の丸と三の丸との区別はつきにくいが、 当時は二の丸に藩の政庁となる御殿が建てられ、三の丸には武家屋敷が並んでいたらしい。周囲には堀の跡が残っている。
【馬屋池】
 三の丸の南側は現在柳廼社となっており、境内にはお馬屋池と呼ばれる堀の一部が残っている。 江戸時代はこの辺りに馬場と厩があり、馬の飲用水などに使われていたらしい。現在でも水が湧いている。
【新堀川と新堀清水】
 城山の南を流れる新堀川は外堀の役割を果たしており、川の近くからは多くの清水が流れ込んでいた。 現在も新堀清水が残っており、おいしい水として地域の人々に親しまれている。
【南側登城路】
 南側山麓にはそれっぽい門が建てられた登城路が設けられているが、当時の登城路は大手の百間坂と北の搦手のみだった。