秋月城
古くは鎌倉時代まで遡る名門である秋月氏の本城、古処山城の山麓居館が建てられていた場所。古処山城は天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州平定時に大軍に包囲され、当時の当主だった12代秋月種実は名物の茶器を差し出し降伏した。なお、この際にも秀吉一夜城を築いている。その後は廃城となっていたが、江戸時代初期に福岡藩の黒田長政の三男長興を藩祖とする秋月藩5万石が成立し、陣屋形式の単郭の平城として整備され政庁となった。以降12代246年にわたり黒田氏がここに居住し明治維新を迎える。明治6年(1873)に廃城となり、一部を残して建物が撤去されたが、現在も当時の町割りがほぼそのまま利用されており、一帯が保存地区に指定されている。
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主要部
【本丸櫓台】 |
城域北側からの登城路を進むと、北西隅の立派な櫓台石垣が見えてくる。当時はここを含めて5基の櫓が建てられていた。
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【堀】 |
主要部の東側に掘られた直線状の堀。北側は良く残っているが、南に行くにしたがい埋まってしまっている。訪れたときは空堀になっていたが、時期によっては水堀になるのかもしれない。
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【瓦坂】 |
居館の正門前の堀に架かる石橋。瓦が縦に並べられた珍しい造りで瓦坂と呼ばれている。現地解説板によると、土砂の流れを防ぐためにこのような造りになっているらしい。現在はこの坂を渡るとすぐ正面は石垣 という不思議な造りになってしまっているが、よく見ると、この部分は後から埋められいる様子。当時はこの場所に大手枡形が設けられていた。
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【表御殿・裏御殿】 |
瓦坂を渡った曲輪内、現在秋月中学校の敷地となっている場所に当時は表御殿が建てられていた。かなり贅沢な中学校。南側の一段高くなった部分に奥御殿が建てられていた。現在は瓦坂の南に中学校の正門が設けられてしまっているが、これは最近になって造られたもの。瓦坂の保存と利便性を考えると、この正門は必要だろうが、これがだいぶ雰囲気を変えてしまっている。中学校を移転して、この正門の土橋と大手枡形の石垣を取り払えば、城としてはだいぶ良い感じなのだが。
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【長屋門】 |
城域の南側に設けられていた長屋門。嘉永3年(1850)に建てられた門で、秋月城内で唯一当時から同じ場所に現存している。奥御殿に通じる場所に位置し、城の裏手門として使用されていた。
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【黒門】 |
初代藩主黒田長興を祀る垂裕神社の門となっている黒門。建設当初は古処山城の搦手門として造られたものらしく、その後、江戸期に移築され秋月城の大手門として使用され、明治13年(1880)に現在の場所に移された。瓦には黒田家の藤巴紋が見られる。江戸時代は、現在埋められている瓦坂の正面石垣辺りに建てられていたと言う事だろう。戻さないかな?
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【杉の馬場】 |
訪れたのは11月後半。ちょうど紅葉の綺麗な時期に当たってしまったようで、すごい人。桜の時期は毎年気を付けて避けているが、紅葉は盲点だった。これからは気を付けなければ。
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その他
【杉の馬場】 |
城域北側から堀沿いに続く登城路は杉の馬場と呼ばれている。現在は桜並木となっているが、これは明治38年に日露戦争戦勝記念で植えられたもので、当初は杉が生い茂っていたらしい。登城路であると同時に、ここで馬術の稽古も行われていた。
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【稽古館跡】 |
現在博物館となっている場所には、安永4年(1775)に創設された秋月藩の藩校、稽古館が建てられていた。明治4年(1871)の廃藩と共に閉鎖された。現在も周囲の石垣が残っている。
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【勢溜】 |
表御門前(瓦坂前)の辺りは軍勢の集合場所となっており、勢溜と呼ばれていた。特に何が残っているわけでもない。島原の乱の際も、ここに集まってから出陣したとの事。
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