岩屋城跡
岩屋城跡について
戦国期に大友氏の拠点、宝満城の支城として四王寺山の中腹の岩屋山に築かれた山城。四王寺山は古くから大野城が築かれるなどこの地域の要衝で、一説によると大野城の遺構の一部を利用して築かれたとも言われている。天正14年(1586)7月に島津義弘率いる5万とも言われる圧倒的な大軍に攻められた際、大友方の名将高橋紹運はわずか700人余りの兵で迎え撃ち、再三の降伏勧告にも応じず城兵全員が討ち死にした壮絶な戦いで知られている。この戦いで島津方にも多大な被害が出たため侵攻が遅れ、結果的に秀吉に降伏する事になった。城はこの戦いの後、そのまま廃城になったと思われる。現在は本丸と二の丸との間に林道が通されてしまっているが、土塁や堀切などの遺構が残っている。
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【本丸跡】 |
急峻な山の山腹に築かれた本丸跡。30m×15m程の狭い曲輪で、岩屋城の戦いの際、この本丸は190人程の籠城兵で守ったと言われている。北側には土塁が設けられ周囲は鋭い切岸加工もされるなど、それなりの要害だったと思われるが、とても5万の大軍とまともに戦えるような規模の城ではなかった事が分かる。むしろ、ここに190人もの兵が籠もるのは相当厳しかっただろう。
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【石碑】 |
本丸跡に建てられている『嗚呼壮烈岩屋城址』の石碑。昭和30年に高橋紹運の家臣の子孫によって建てられたもの。岩屋城の戦いは、戦国期の戦いの中でも、特に壮絶な戦いだった。
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【本丸土塁】 |
本丸の北側には高さ5m程の重厚な土塁が残っており、この土塁の外側には掘切が掘られている。規模は小さいながらも、それなりに守りの堅い城だった事が分かる。逆に、少ない城兵で守る場合はこれ位の規模の城の方が守りやすかっただろう。
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【南側腰曲輪】 |
本丸の南側下に設けられていた腰曲輪の跡が残っている。江戸時代に描かれた絵図にもこの腰曲輪は描かれている。
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【本丸からの眺め】 |
本丸からは南側の太宰府一帯が一望出来る。太宰府はこの頃は既に衰退し、この一帯は大友氏が掌握していた。
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【本丸堀切】 |
本丸の北側には堀切が残っている。はっきりと確認出来る掘切は二本程だが、他にも数本掘られていたように見える。当時は畝状になっていたのだろう。
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【二の丸跡】 |
林道を隔てた西側下にの尾根上に設けられていた二の丸跡。岩屋城の戦いで討死した高橋紹運の墓が建てられている。
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【二の丸櫓台跡】 |
二の丸の周囲は切岸が残っており、北側には櫓台跡と思われる土塁が見られるが、当時の遺構かは定かでない。
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【二の丸腰曲輪跡】 |
二の丸の南西方面には、尾根伝いに数段にわたって腰曲輪が設けられていた。
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【全面通行止】 |
岩屋城には、本丸と二の丸との間に車道が通されており、通常は車で行けるのだが、訪れた時は運悪く土砂崩れによる復旧工事と言う事で、四王子山山頂の駐車場から山麓まで通行止めへと続く車道は通行止め。これは車が通ってはいけないと言う事だろうと判断し、ここから徒歩で向かう。徒歩でも15分程で着く。
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