久留米城跡
久留米城跡について
豊臣秀吉の九州平定後にこの地に入った毛利元就の九男の毛利元包が、天正15年(1587)にそれまであった篠山城を本格的な城郭へと修築したのが本格的な久留米城の始まり。関ヶ原後には田中吉政のこの吉信が入ったが跡継ぎがないまま取りつぶしとなった。その後、城は荒れ果てていたが、元和7年(1621)に有馬豊氏が21万石で入り、70年もの歳月をかけて城と城下町を整備した。本丸に天守は建てられなかったが、この頃に本丸周囲の7基の櫓やそれら繋ぐ二重の多門櫓などが建てられたと思われる。江戸期を通じて久留米藩有馬氏の居城として存続したが、明治期に廃城となり、多くの建物が壊された。現在も本丸周囲の石垣は良く残っているが、建物は一つも残されていない。
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【南面の石垣】 |
本丸の正面にあたる南面の石垣は、本丸内でも特に高く積まれている部分で、高さは15mに及ぶ。隅部の算木積も完成度が高い見事な石垣だが、有馬氏の頃に築かれたものだろうか。この石垣上の南西隅と中程の隅部にはそれぞれ三重の太鼓櫓と坤櫓が建てられ、それらを二重の多門櫓で連結した堅固な造りだった。なお、南面のみならず本丸の全周にわたって二重の多門櫓が建てられており、これは唯一久留米城のみだったらしい。
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【水堀跡】 |
本丸南面の石垣下には水堀の一部が残っている。広いところでは幅20m程ある。
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【大手門跡】 |
本丸の南側の大手門跡。大手にふさわしい内枡形の厳重な虎口で、二の丸からの土橋を渡った場所に冠木御門が設けられ、そこから左に曲がった場所に櫓門が設けられていた。また、当時は右側にも小さい門があり、太鼓櫓の方に抜ける事も出来たらしい。一部改変されているらしいが、周囲の石垣を見ると、確かに右側の石垣は低くなっている。門の石垣横には、久留米城本丸址の石碑が建てられている。
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【巽櫓跡】 |
本丸南東隅に残る巽櫓跡。本丸周囲の石垣よりも一段内側に櫓台が築かれており、石垣が二重になっているように見える少し変わった造り。元和6年(1620)頃に建てられたものと考えられており、本丸内に7基あった櫓の中で最大のもので、唯一千鳥破風が設けられている事などから、天守が建てられなかった久留米城で実質の天守代わりの櫓だったと思われる。昭和になり、一時期再建が計画されたが、断念したらしい。
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【篠山神社】 |
現在、本丸跡は明治期に建てられた篠山神社の境内となっている。篠山神社には藩祖の有馬豊氏ら歴代藩主が祀られている。
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【有馬記念館】 |
本丸の西側には、ブリヂストンから寄贈された有馬記念館が建てられている。中には入らなかったが、この裏辺りに設けられていた西御門の跡は見たかったな。
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【東郷平八郎の書斎】 |
有馬記念館の横には何故か東郷平八郎の書斎が移築されている。元々は東京麹町にあったものらしい。色々説明が書いてあったが、やっぱり何故ここに? という感じ。
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【井戸跡】 |
本丸内に残る井戸跡。現在は本丸内に2つが残っているが、当時は3つあったらしい。
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【東御門跡】 |
本丸の東側に設けられていた東御門跡。当時はこの横に建てられていた月見櫓の横を回り込むように二階折れる構造で、月見櫓と多門櫓で厳重に守られていた。階段上の門の跡には礎石が残っている。
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【月見櫓跡】 |
東御門横に建てられていた月見櫓の跡。本丸の周囲に建てられていた櫓は基本三重櫓だったが、何故かここだけ二重櫓だった。しかし、東虎口を守る重要な櫓で、櫓台の石垣は高くて見事。
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【蜜柑丸跡】 |
本丸の東側下、東御門を出た場所には蜜柑丸と呼ばれる腰曲輪が設けられていた。蜜柑丸とは変わった名前だが、蜜柑が植えられていたためと言う理由らしい。割と安易なネーミング。
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【筑前堀跡】 |
本丸の東側、現在高校のグラウンドとなっている辺りは広大な水堀だった。この水堀は有馬豊氏と親交のあった黒田長政が設計した事から筑前堀と呼ばれていたらしいが、水堀に設計とかあるのだろうか?
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【東側石垣】 |
本丸の東側も大石を使った見事な石垣が残っているが、蜜柑丸の部分だけサイズの小さい石を使った布積みのような野面積みになっている。この部分の石垣は築城時期が違うのだろうか?
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【東側多門櫓跡】 |
東側の石垣上に残る多門櫓の跡。この石垣上に二重の多門櫓が建てられていた。南側の太鼓櫓周辺の石垣が良く残っている。
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【艮櫓跡】 |
北東隅に建てられていた艮櫓跡。南面の石垣に比べると、この櫓台の石垣はだいぶ粗雑な印象を受ける。裏面と言う事もあるのだろうか。周囲の石垣も一部崩れてしまっている。まぁどちらかというと、こういう雰囲気の方が好きだったりするが。
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【艮櫓跡に残る瓦】 |
艮櫓跡には、当時のものと思われる沢山の瓦片が落ちている。
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【北側多門櫓跡】 |
北側の多門櫓跡。東側の艮櫓周辺には高さ1m程の石垣が良く残っているが、西側には石垣が残っておらず、土塁状になっている。
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【乾櫓跡】 |
北西隅に建てられていた乾櫓の跡。周囲に木が生い茂っており、周囲の石垣を確認する事は出来なかった。
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【筑後川】 |
城域の北側~西側を流れる筑後川。天然の水堀の役割をしていた。
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