Japanese Castle

名島城跡

名島城跡について

 豊臣秀吉による九州平定後の天正16年(1588)に、筑前と筑後・肥前の一部を与えられて入国した小早川隆景により築かれた。当時は三方を海に囲まれた連郭式の大城郭で東に二の丸、三の丸が続いていた。隆景が隠居して三原城に移ると、秀秋が後を継いで城主となったが、関ヶ原の戦功により慶長5年(1600)に岡山に移った。その後、黒田長政がこの地を与えられて入城するが、翌年から福岡城の築城を開始する。その際に名島城を廃して建物や石垣は全て解体されて運ばれた。これは『名島引け』と呼ばれ、多くの遺構が壊された。現在は本丸部分が城址公園として整備されている。
【大手門跡】

 本丸の東側に残る大手門跡。近年の調査で発掘されたらしい。石垣の一部しか残っておらず、古絵図も城が建てられていた当時のものは残っていないので、よく分からないが、右に折れる枡形だったのだろうか。大手だけあり、流石に大きい石が使われているが、この石は福岡城に持っていかなくて良かったのだろうか?
【本丸跡】
 連郭式城郭の一番西側、海に近い場所に設けられていた本丸跡。所々に大きな石が転がっているが、これらも福岡城に運ぶつもりだったのだろうか。
【隅櫓跡】
 本丸の北西隅には隅櫓跡の石垣が残っている。積み直しっぽい感じがあるが、ここにも大石が使われている。石垣の外側からは多量の瓦が見つかっているらしい。
【西側入口】
 大手とは反対側に設けられている名島神社側の入口。公園化された本丸部分は、入城が金網門によって厳しく制限されており、初日は定時を過ぎていたので門が固く閉ざされており、入城出来ずに退却する事となった。
【名島神社】
 本丸跡の南西側、一段下がった名島神社の境内となっている場所も比較的広い曲輪。名島神社は神功皇后の遠征の無事を祈願したのが起源とされているので結構古そうだが、築城の際にここに移されたらしい。明治維新の神仏分離令までは弁財天社と呼ばれており、古絵図にも弁財天社と書かれている。
【腰曲輪】
 名島神社の西側には、腰曲輪のような地形が見られる。古絵図にもこの辺りに腰曲輪が描かれているので、当時の遺構かもしれない。
【弁財天】
 本丸の南側、現在宗栄寺が建てられている辺りが、弁天曲輪のあった場所と思われる。北側の本丸との間に設けられた車道は掘切の跡と見られ、反対側にもそれっぽい窪みが見られる。
【海岸線】
 海岸線には三国時代(3世紀頃)の朝鮮に出兵したと言われる神功皇后の伝説にまつわる旧跡が残っている。帰還した際に舟の帆柱が化石になったなど、信憑性の低いと言うか、実際にはあり得ないが、天然記念物になったりしている。
【名島門】
 福岡城の三の丸に移築されている名島門。名島城の脇門だったらしいが、どこの事を指しているのかはよく分からなかった。名島引けの際に黒田24騎の一人である林掃部に下げ渡され、邸宅の門と使用されていたものらしい。戦後この場所に移された。
【唐門】
 福岡市内の黒田家の菩提寺である崇福寺に残る移築されている唐門。福岡城三の丸に移築されている名島門とともに数少ない現存建築物。