立花山城
7つの峰を利用して築かれた巨大山城で、大友氏の一族、大友貞戴によって建武年間(1334~1336)の頃に築かれたの始まりとされる。以降大友貞戴は立花氏を名乗り、西の大友と呼ばれる勢力となる。永禄11年(1568)に当時の城主、立花鑑載が毛利氏と通じて大友宗麟に反旗を翻すが、鬼道雪こと戸次鑑連が鎮圧し入城し立花の名字を引き継いだ。その後、天正6年(1578)には近隣の大友氏や筑紫氏が大友氏に反した際、鑑連はここで籠城。また、天正14年(1586)には鑑連の養子宗茂が島津氏の猛攻を防ぐなど、多くの実戦を経験している。天正十五年(1587)に秀吉が九州を平定すると立花宗茂は柳川に転出し、代わりに小早川隆景が入城。しかし、天正19年(1591)に名島城を築き、そちらに移ってからは名島城の支城として利用された。廃城時期については定かではないが、慶長国絵図に『立花山古城』と記載されている事から、慶長5年(1600)に黒田氏が筑前に入国した頃に廃城となったと思われる。現在見られる遺構の基本的な縄張は立花道雪の頃のものと考えられ、その後、小早川隆景の頃に石垣を築くなど近世城郭化されたと考えられている。
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登城路
【登城路】 |
東側山麓の駐車場から登城。登城路はハイキングコースになっていて登りやすいが、途中二手に分かれる。おそらく正規ルートは屏風岩を通り井楼山に至るルートだが、そちらは帰りに残しておき、行きは直上ルートを登ってみる。こちらは基本的には現在通行止めのような感じで、途中で崩落している箇所もある為、自己責任で。
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【屏風岩】 |
ちなみに、こちらは帰りに通った井楼山寄りのメインルートにある屏風岩。かなり巨大な一枚岩。この辺りは石が多く、石垣用の石材にも困らなかったと思われる。
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【井戸】 |
屏風岩野近くにある井戸跡。竪堀の堀底にあるので、流れてきた水を溜める感じの井戸だったのだろうか。いずれにしても、周囲に石を積んだ本格的な井戸が残っている。
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イバタノヲ・大タヲ
【イバタノヲ・大タヲ石垣】 |
元の直上ルートから登城すると、いきなり高さ2m程の見事な石垣が現れる。この部分はイバタノヲ・大タヲを呼ばれる幅広の尾根を削平した曲輪の東側側面にあたる場所。一つ一つの石も大きく立派な石垣。これらの石垣の多くは小早川期に改修されたものと考えられているが、それ以前のものの可能性も結構ありそう。
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【イバタノヲ・大タヲ 曲輪郡】 |
イバタノヲ・大タヲの西側下に設けられている曲輪。この下にも更に数段にわたって曲輪が続いている様子。一つ一つの曲輪が大きく居住性もかなりありそうだが、全てを確認は出来なかった。それにしても、『イバタノヲ・大タヲ』とは随分変わった名前だが、由来はよくわからない。
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【イバタノヲ・大タヲ~井楼山】 |
イバタノヲ・大タヲから井楼山へ。途中、数段にわたって曲輪が設けられており、一部に石垣も残っている。石垣隅部は一応算木積みっぽくなっているが、結構古そうで、上述したとおり、この辺りは小早川以前のもののようにも見える。
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【登り石垣】 |
上記の曲輪の東側は、一見すると普通っぽい石垣が築かれているが、よく見ると尾根筋にそって続いており、登り石垣であることが分かる。登り石垣自体は他の城でもちょくちょく見られ、それらに比べるとやや規模は小さい気もするが、文禄・慶長の役以前に築かれたものとしては非常に珍しい。
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井楼山
【井楼山西側腰曲輪】 |
登り石垣沿いに少し登ると、状態はあまり良くないものの、高さのある石垣が見えてくる。ここが井楼山の西側腰曲輪にあたる場所。石垣の中央部が崩落しているが、虎口跡と見て良いかもしれない。
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【井楼山】 |
標高367mの立花山の最高所に位置する井楼山。城は七つの峰にわたって築かれており遺構も散在している為、中心部がいまいち分かりにくいが、この井楼山が中心的な場所だった。山頂を削平しただけのような長軸100m程の細長い曲輪で、周囲の土塁も見られないが、それなりに切り岸加工してある様子。四方に虎口が設けられている。
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【井楼山からの眺め】 |
井楼山からは、当時から有数の貿易港だった博多湾を一望することができ、ここが重要拠点だった事が分かる。
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【井楼山虎口】 |
井楼山には東西南北4箇所の虎口が設けられているが、どこまでが当時の遺構かは正直良く分からない。南側の虎口は枡形になっているとのことだったが、こちらもいまいち判別出来なかった。
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【東側曲輪】 |
本丸の東側に設けられている細長い曲輪。曲輪と言うよりは殆ど尾根といった感じで、中世の山城といった印象だが、所々に石垣が見られる。
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【立花大権現】 |
東側曲輪の端に立花大権現と七面大天女の碑が建てられている。現地案内に『おそらく立花道雪を祀ったもの』とあるので、はっきりした事はよく分かっていないのかもしれない。ちなみに、立花道雪は天明3年(1783)に梅岳霊神の神号を贈神され、祀られているらしい。要するに、家康の東照大権現と同じく、神になったと言う事だろう。ちなみに、隣の七面大天女は法華経を守護する女神らしい。
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松尾山
【イバタノヲ・大タヲ~松尾山】 |
井楼山から一旦イバタノヲ・大タヲに戻り、北側の松尾山へ。松尾山中腹には巨石が転がっており、どこまでが石垣か自然石か分からないような感じになっている。この辺りは自然地形に近い感じがするが、かなり急峻で雨だったこともあり、結構危険。
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【松尾山】 |
北側の松尾山頂部の曲輪。こちらも井楼山同様、頂部を削平しただけの曲輪で土塁等は見当たらないが、切り岸はそれなりにしっかり加工してある。道雪の時代はここに道雪の親族が居住していたらしいので、重要な曲輪だったことが分かる。
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【松尾山 井戸跡】 |
曲輪の西側には井戸跡にも見える大きな窪みが見られる。ただ、巨木が根本から倒れても、これ位の穴はあきそうなので、確実な事は何ともいえない。
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【松尾山 虎口】 |
曲輪西側の虎口跡。元々この辺りにあったものと思われるが、かなりの巨石が使われている。この先は白岳に至るが、結構な坂と足下のぬかるみ具合から断念。
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【松尾山 瓦】 |
井楼山同様、松尾山にも瓦が転がっている。数百年前のものが普通に転がっているのが嬉しい。
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馬責め馬場
【馬責め馬場】 |
今度は一転して城域東に位置する馬責め馬場へ。一応は独立峰の頂部っぽいが、尾根を削平したような曲輪に見える。他の郭同様、こちらも結構古い中世山城といった雰囲気で土塁も見られないが、一部に石垣が築かれており少し不釣り合いな感じ。この辺りが小早川期の改修と言われるところだろう。周囲には数段の腰曲輪も見られる。また、ここまで来る人はあまりいなそうなのに、曲輪の先端に椅子が円形に並べられていたのが何だか不気味な感じ。
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【馬責め馬場周囲の楠】 |
馬責め馬場の周囲には多くの巨大な楠が自生しており、中には樹齢300年以上のものもある。この辺りは楠の北限らしく、国内唯一の楠の原始林として国の特別天然記念物に指定されている。ただ、樹齢300年でも廃城後なので、当時の景観とはだいぶ異なるだろう。
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その他
【梅岳寺 立花道雪の墓】 |
立花山の東側山麓、梅岳寺にある立花道雪の墓。道雪は天正13年(1585)9月11日に筑後の陣中で病没し、ここに埋葬された。
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