柳川城跡
柳川城跡について
築城時期ははっきりしないが、筑後の名族だった蒲池氏の居城として河に囲まれた水郷地に築かれた堅城。天正8年(1580)には龍造寺氏に離反して攻められているが、一年近く続いた攻撃から守り抜いている。しかし、その後蒲池重竝が龍造寺氏に謀殺され、龍造寺の城となった。天正12年(1584)には大友勢の高橋紹運と立花道雪が攻めているが、この時も落城していない。天正15年(1587)に豊臣秀吉の九州後、立花宗茂が入ったが、関ヶ原で西軍についたため城を明け渡す。その後、関ヶ原で戦功をあげた田中吉政が入り、この頃に近世城郭へと大改築され、五重天守も築かれるとともに城下町も造られた。しかし、田中氏は跡継ぎがなく僅か2代で断絶し、再び立花宗茂が城主となった。関ヶ原で西軍につきながら旧領に復帰したのは、立花宗茂のみ。その後、江戸時代を通じて立花氏の居城として明治維新まで続いた。天守などの建物も明治期まで残っていたが、明治5年(1872)に本丸と二の丸が全焼した。さらにその2年後の明治7年(1574)には、海岸の堤防補強のために、石垣が運ばれてしまった。当時は『柳川三年、肥後三月、備前・久留米は朝茶の子』と言われ熊本城を上回ったとされる堅城の跡形もない。現在は学校の敷地となっており、天守跡の高台が市の史跡に指定されている。
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【本丸跡】 |
現在中学校の敷地内の一段高くなっている場所が本丸跡。現在は跡形もないが、当時は本丸内部には御殿が、南西隅には五重五階の層塔型の天守が建てられており、明治期まで残っていた。現在残っている部分は本丸南西部の天守台が建てられていた部分と思われる。
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【天守台跡】 |
天守台の周囲は現在緩やかな土塁になっているが、当時は高さ8mの石垣に囲まれており、その上に高さ35mの天守が建てられていたらしい。
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【石材】 |
本丸内には、石垣に使われていたものと思われる大きな石材が転がっている。当時は周囲を石垣で囲まれていたが、明治期に堤防建設のために取り壊されて運ばれてしまった。現状を見る限り想像出来ないが、この大きさの石が用いられていた事を考えると、かなり立派な石垣だったと思われる。
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【手水石】 |
本丸内に残る穴のあけられた石。手水石だろうか?
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【本丸石垣】 |
上記の本丸跡の東側に残る石垣。高さ1.5m~2m程の石垣が続いているが、ここが唯一現存する石垣らしい。最初本丸の東側部分の石垣かと思ったが、それにしては本丸が狭すぎる。本丸内を仕切る石垣だったのだろうか?
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【西側石垣】 |
本丸西側の石垣。現在入り口となっている部分にそれっぽく石が積まれているが、古絵図によるとここに虎口は見られない。石垣の隅部も丸くなっており、当時のものではなさそう。中途半端に石垣とか造られると、一瞬遺構かと思ってしまうので、ちょっとやめて欲しいな。
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【本丸水堀跡】 |
本丸の南側、現在中学校の校庭となっている辺りは、当時は水堀だったと思われる。本丸周囲の水堀は広大で、広いところは80m以上あったらしい。
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【石碑】 |
本丸の南側の道路脇にひっそりと建てられている柳川城址の石碑。気を付けていないと見逃してしまう。
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【水堀】 |
城の中枢部は建物は焼失し、石垣は持ち去れて跡形もなくなってしまっているが、周囲の水堀は良く残って街中に溶け込んでいる。生活用水や水運を兼ねた水路で、城下町全体に巡っていた。現在は観光船が柳川名物ともなっている。
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