会津若松城 天守・本丸



【復元天守】
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 蒲生氏郷の頃に7層の天守が築かれたが、加藤明成の頃に5層に建て替えられた。 幕末になり、約一ヶ月に及ぶ戊辰戦争で多くの砲弾を受け、明治政府の命令で 石垣だけ残して取り壊された。昭和40年になり再建され、内部は郷土博物館や 展望台となっている。近年、幕末時代の赤瓦に変更されるなど、リニューアルされている。

【塩蔵】
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image-1  天守台内部は塩蔵となっていた。塩は海を持たない会津にとって貴重で、籠城時の備え として蓄えられていた。戊辰戦争時、会津に蓄えられた塩は36000俵に達したと言われ、 その一部がこの塩蔵に置かれていた。蔵役人と積まれた塩が再現されている。


【走長屋】
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image-1  本丸西側に復元された走長屋。北で天守、南で干飯櫓と連結して本丸と帯郭とを隔てており、 当時は武器庫として使われていた。狭間や石落としの他に、発掘調査を元に部屋割りも再現されている。

【表門】
image-1 image-1  走長屋の中程に設けられた北向きの櫓門。帯郭から本丸内に通じる表門で、 扉や柱が鉄で覆われていた事から、鉄門とも呼ばれていた。 石垣は見事な切込み接ぎで積まれている。

【干飯櫓】
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 本丸南西隅に復元された干飯櫓。城内にあった11棟の二重櫓の中で最も大きかった。 糒櫓とも書かれ、食料庫だった。走長屋と連結し、本丸と帯郭とを隔てている。 走長屋とともに、古絵図や西出丸の隅櫓などを参考にして、当時の工法を用いて本格的に復元されている。



【本丸跡】
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 周囲を多門櫓出囲まれた広大な本丸。表門を入ると本丸南側の表に通じ、 そこから北に藩主の居間、奥へと続いていた。それぞれ正確な場所が分かっているらしく、 所々に当時の建物跡の案内が建てられている。

【馬洗石】
image-1 image-1  当時、本丸南側には馬術を稽古するための馬場があり、馬が口洗いの為に用いたと 伝えられる石が残っている。

【埋門跡(旧表門)】
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 本丸奥御殿の北側から帯郭に通じる埋門。大手口が東だった建築当時は表門だったが、 寛永16年(1639)の加藤明成による改築後は裏門となった。本丸奥御殿の勝手口としても 重要な門だった。

【御三階跡】
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 本丸内に唯一の高楼建築だった御三階が建てられていた場所。藩主の休息の間の近くに位置し、 限られた人しか近づけなかったと考えられている。明治初年まで鶴ヶ城本丸にあったが、 戊辰戦争後、鶴ヶ城の取り壊しが行われる前の明治3年に市内の阿弥陀寺に移された。 2007年に訪れた際は石垣が残っていたが、2014年に訪れると石垣が解体され、発掘調査されていた。

【月見櫓跡】
image-1 image-1  本丸南東隅に建てられていた二重の塗込櫓。武器が収められていた櫓だが、城内からの 月見の場所として絶好だった事から月見櫓と名付けられた。南方の物見櫓として、 また本丸石垣外部の横矢掛としても重要な櫓だった。

【茶壺櫓跡】
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 本丸東側に建てられていた櫓で、この櫓近くの本丸奥御殿内には茶室麟閣が建てられており、 櫓内には常に貴重な茶器類が納められていた事から茶壺櫓と呼ばれるようになった。 また、御弓櫓と共に本丸の旧大手口に通じる廊下橋の横矢掛としても重要な櫓で、武器の収容も 目的とした二重の塗込櫓だった。


【東側石垣】
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image-1  本丸の東側、茶壺櫓と廊下橋との間の石垣は高さ20m程あり、城内で最も高い扇勾配をなしている。 忍者落としとも言われている。


【井戸】
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 本丸内には多くの井戸が残っている。