会津若松城 帯曲輪・出丸



【北出丸】
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 寛永16年(1639)に当時の城主、加藤明成によって北馬出から出丸に造りかえられた。 本丸を守る重要な出丸だった。南は本丸、東西にはそれぞれ二の丸西出丸が堀を隔てて相対しており、 攻防の際には最も重要な要所だった。北出丸に侵入した敵は三方から殲滅する事が出来る為、 『みなごろし丸』とも呼ばれていた。

【椿坂】
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 北出丸と本丸との間の水堀にかかる土橋。周囲は石垣で固められ、一段高くなっている。 当時は石垣上に土塀が建てられていたものと思われる。

【太鼓門】
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image-1 image-1  椿坂を渡り、北出丸から本丸へと通じる大手にあたる門。当時は石垣上に多聞櫓が建てられていた。 直径5尺8寸(1.8m)の大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、その他の合図に使用されていた事から 太鼓門と呼ばれていた。

【太鼓門 武者走り】
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 太鼓門の石垣の裏側に設けられた武者走り。太鼓門の渡り櫓などへ簡単に行き来が出来るように 造られててお、占有面積も少なくすむよう工夫されている。


【北側帯曲輪】
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 太鼓門を入った場所が北側の帯曲輪。周囲を重厚な土塁で囲まれ、本丸との間は石垣で仕切られている。

【北側帯曲輪石段】
image-1  本丸と北側の帯曲輪とを仕切る石垣に設けられた石段。石垣上に建てられていた 走長屋への出入口があったと思われる。

【稲荷神社】
image-1  北側の帯郭内にある稲荷神社。葦名氏により築城された当初から守護神として祀られているらしい。 当初は三ノ丸にあったらしい。


【東虎口】
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 北側帯曲輪の東側には重厚な枡形門が設けられている。当時は石垣上に櫓門が建てられていたと思われる。

【廊下橋】
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 帯曲輪と二の丸との間に架けられている木橋。途中まで土橋となっているが、攻められた際に 橋を落とせるように、半分だけ木橋になっている。

【二の丸】
image-1 image-1  本丸の東側、廊下橋を渡った場所が当時の二の丸。現在はテニスコートになっているが、 周囲の石垣や土塁が残っている。


【西側帯郭】
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 本丸西側の帯郭。本丸とは表門と走長屋で仕切られている。周囲の土塁も良く残っている。

【謙信霊廟】
image-1  上杉謙信は瓶に納められ春日山に葬られていたが、上杉景勝の会津移封にともない墓所も移された。 その後、米沢に移されたので現在は残っていないが、記録によると、城内の西南隅の仮殿に安置されたと あるので、西側の帯郭内の蔵跡あたりだと思われる。

【西側虎口】
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 帯曲輪西側の規模の大きな内枡形虎口。切込み接ぎで積まれた重厚な石垣が残っており、 門跡と見られる溝も見られる。

【鐘撞堂】
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 西側虎口の枡形石垣上に設けられた鐘楼。戊辰戦争時にはここに西軍の砲火が集中し、 時守が相次いで倒れたが、開城の時まで正確に時を報じ続けて見方の士気を鼓舞した。

【梅坂】
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 帯郭と西出丸とを繋ぐ土橋。北側の椿坂同様、両側に石垣が築かれており、 当時は土塀が建てられていたと思われる。

【西出丸】
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 寛永16年(1639)に当時の城主加藤明成により整備された。4300坪の規模の大きな曲輪で、 内部には塩硝蔵などが置かれ、西南隅と西北隅には隅櫓が建てられていた。