向羽黒山城 中城・水の手エリア



【二曲輪】
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image-1  実城と堀切を挟んで北に位置する東西約40m、南北約60m程の曲輪。 険峻な実城に比べると曲輪も広く、生活機能が重視された曲輪で、実質的にはこちらが 中心だったと思われる。蘆名氏累代から破城される上杉景勝の頃までの遺構が残っており、 建物の礎石の他、磁器片なども発見されている。

【二曲輪からの眺め】
image-1 image-1  二の曲輪からは会津若松市街が一望でき、鶴ヶ城も見える。

【二曲輪南側虎口】
image-1 image-1  二の曲輪南側の虎口。坂道の途中から石積みが見つかっているらしい。

【二曲輪北側虎口】
image-1  二曲輪の北側にも虎口があり、当時は曲輪群を経て北のお茶屋場に続いていた。

【二曲輪南側】
image-1  二曲輪の南側には数段にわたって腰郭が設けられている。現在駐車場となっている部分も これらの腰郭の一部だったと思われる。


【水の手曲輪】
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 二の曲輪の西側、三の曲輪方面にかけての斜面には、多くの腰曲輪やつづら折の道が続く。 この辺りは水の手曲輪と呼ばれ、現在でも堀の一部に水が溜まっている。 山城では貴重な水源だったと思われる。

【二曲輪〜水の手曲輪 虎口】
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 二曲輪の西側、水の手曲輪方面への虎口。土橋を渡ったところに大石を使った内枡形が設けられていた。 現在は石垣の多くが壊されており周囲に石が散乱しているが、その石の大きさから蒲生氏時代のものと思われる。

【馬出し】
image-1 image-1  虎口の前の空堀には土橋が架けられ、土橋を渡った場所は馬出し状になっている。

【水の手曲輪 空堀】
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 二曲輪の西側を取り巻く空堀。外側の土塁も良く残っている。土橋の南側には 水が溜まっている箇所もあり、当時から貴重な水源として利用されていた。

【水の手曲輪 北側竪堀】
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 水の手曲輪には規模の大きな二本の竪堀が掘られている。北側の竪堀には一部石垣が残っている。

【水の手曲輪 北側竪堀石垣】
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 竪堀に残る石垣。幅1m以上の大石を使い、野面積みで詰まれている。基本的には土の城だが、 要所には石垣が築かれていた。このあたりの石垣も蒲生氏時代のものと思われる。

【水の手曲輪 南側竪堀】
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 水の手曲輪には二本の竪堀が掘られており、特に南側の竪堀は深さ7〜8mある規模の大きなもので、 見事に残っている。

【水の手曲輪 虎口】
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 水の手曲輪の下方に残る虎口跡。枡形の形状が分かる。当時はこの虎口を通り、 水の手の二本の竪堀の間のつづら折りの道を通り、土橋を渡って二曲輪に至る道があった。