桧原城



【桧原城】
image-1  天正13年(1585)に伊達政宗がこの地を攻略し、この地域の支配と会津侵攻の拠点として築いた山城。 当時、この辺りは米沢から会津に抜ける街道上の要所で、伊達氏と蘆名氏との境目の城として機能した。 後藤信康が城番となり約4年間守り通し、天正17年(1589)摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると 桧原城は役割を終え、廃城になったと思われる。 山城としては珍しく正確な築城年代が分かっており、当時の伊達氏の築城技術を知る上で貴重な遺構となっている。


【登城口】
image-1 image-1  登城路は東西に一箇所ずつあり、東側が当時の大手だったらいい。 今回は記録的大雨の為登城を断念。


【桧原宿】
image-1 image-1  会津若松と米沢とを結ぶ米沢街道沿いに位置する宿場町。奥州と接する重要な宿駅として 検断役が配置されていた。山中の為米はとれず、石高は40石程だったが、宿場や山林業、 また金山で生計を支えていた。明治21年(1888)の磐梯山の噴火により出来た檜原湖の湖底に沈み、 現在の桧原集落に移った。


【穴沢氏五輪塔】
image-1 image-1 image-1
 桧原宿に建つ穴沢氏の五輪塔。穴沢氏は山賊を退治し、蘆名氏麾下としてこの辺りの防衛を 任されていたが、天正12年(1584)に攻め込んできた伊達政宗により一族の殆どが殺された。 この五輪塔は桧原宿とともに湖底に沈んだが、渇水時に湖底の墓地から現在地に移された。