猪苗代城



【猪苗代城】
image-1 image-1 image-1
 奥州征伐の軍功により源頼朝から会津四群を与えられた佐原氏の一族である 猪苗代氏の居城で、建久2年(1191)に築かれたと伝えられている。以後400年間、 14代盛胤まで代々猪苗代氏の居城となった。 天正17年(1589)の摺上原の戦いの際、猪苗代氏は主家の蘆名氏を裏切り伊達勢を 引き入れた事もあり、蘆名氏は敗北し猪苗代城も伊達氏の所領となった。 しかし、翌年の奥羽仕置において伊達政宗は会津を没収され、奥州岩出山城に移封となり、 猪苗代氏もそれに従って移った。 その後、会津に入部した蒲生氏郷により近世城郭に改修され、一国一城令が出た後も 破却されず、近世を通じて城代がおかれ会津藩の東の重要な拠点として機能した。 慶長4年(1868)の戊辰戦争の際に建物は全て焼き払われ、城としての役割を終えた。 現在は県の指定史跡に指定され、亀ヶ城公園として整備されている。


【大手枡形虎口】
image-1 image-1 image-1
image-1 image-1 image-1
 本丸の東側山麓に残る規模の大きな大手の枡形。一の門にあたる冠木門と二の門にあたる櫓門 により枡型を構成していた。周囲の石垣が良く残っている。


【鐘楼・井戸】
image-1 image-1 image-1
 枡形の二の門の先は、土塁で囲まれた馬出状の小郭となっており、 土塁上には鐘楼、郭内には三本杉井戸が残っている。


【大手道】
image-1 image-1 image-1
 大手枡形から本丸へと続く大手道。一回目は夜中、二回目は大雪だったため、 3回目にしてようやく石段を見る事が出来た。


【胴丸】
image-1  石段を登ると、本丸周囲を取り囲む帯郭に出る。この辺りの帯郭は胴丸と呼ばれており、 幅5m程通路のような帯郭が南北に続き、北帯郭と南帯郭とを結んでいる。


【虎口石垣】
image-1 image-1 image-1
image-1  胴丸から本丸方面へと続く大手道に設けられた虎口の石垣。虎口などの要所は 石垣で固められている。これらの石垣は蒲生氏時代のものと思われる。


【虎口石垣〜本丸】
image-1 image-1 image-1
 石垣で囲まれた虎口を抜けると正面は本丸の土塁となり、左右に道が分かれる。 本来の大手道は左側で二ノ郭を通り本丸に至り、右側は直接本丸の東門に通じていた。


【二ノ郭 東側虎口】
image-1 image-1 image-1
image-1  大手道の石段を登りきると、二ノ郭東側の虎口に至る。当時はここに櫓門跡が建てられており、 左右の石垣と礎石が残っている。

【二ノ郭】
image-1 image-1 image-1
 本丸の南側、一段下がったところに位置する曲輪。本丸とは1m程の段差で仕切られており、 周囲には土塁が築かれている。当時は土蔵が建てられていた。 北東の櫓門の他、本丸との間には黒門、南側には帯郭へと通じる井戸門、 北西にも石垣を伴う虎口が設けられ、本丸へと至るルートの要となっていた。

【二ノ郭 野口英世像】
image-1  二ノ郭にはアメリカから寄贈された野口英世像が建てられている。 野口英世が通っていた猪苗代尋常高等小学校はすぐ近くにあり、当時猪苗代城は 子供達の遊び場になっていた為、野口英世も幼少期ここで遊んでいたと思われる。

【二ノ郭 井戸門跡】
image-1 image-1 image-1
 二ノ郭の南東、帯郭の井戸へと通じる虎口で井戸門跡と呼ばれた。門の礎石が残っている。
【二ノ郭 西側虎口】
image-1 image-1 image-1
 二ノ郭の西側の帯郭へと通じる虎口。この虎口の横には本丸隅櫓があり、この虎口を守っていた。 現在も隅櫓の石垣が残っている。


【本丸】
image-1 image-1 image-1
image-1  城山の最上部に位置する東西40m、南北60m程の本丸。周囲は高さ1〜2m程の土塁で 囲まれているが、所々に雁木が見られる事から、当時は石垣が築かれていたと思われる。 会津藩の御座所、兵具庫、塩蔵などが建てられていた。

【本丸北側】
image-1 image-1 image-1
 本丸の北側には高さ1.5m程の重厚な土塁が築かれ、その外側は北帯郭まで高低差10m程の かなりの急勾配の斜面となっている。

【本丸東側】
image-1 image-1  本丸の東側にも高さ1m程の土塁が続いており、一部には雁木が見られる。この上に土塀が建てられ、 大手方面を守っていたと思われる。


【井戸跡】
image-1 image-1  胴丸と南帯郭との中程にある井戸跡。井戸跡と言うよりは、井戸郭に近い感じ。


【南帯郭】
image-1 image-1 image-1
 本丸の南側に位置する南帯郭。20m四方程の郭で、当時は硝煙蔵が建てられていた。 周囲には土塁が残っており、南側は深い堀切になっている。

【南側堀切】
image-1 image-1 image-1
 南帯郭の土塁の南側、城山の南端は鋭角な切岸と深い堀切で断ち切られている。


【旧山内家住宅】
image-1  城山の南側、堀切を隔てた山麓は源左衛門屋敷と呼ばれていた。現在は図書館が建てられており、 その一角に城下にあった農家住宅が移築されている。文化8年(1812)に建てられた寄棟造、茅葺きの直屋で、 当時の生活文化を知る貴重な建物となっている。


【西帯郭】
image-1 image-1 image-1
image-1 image-1 image-1
 本丸の周囲を取り巻く帯郭の中でも西側は特に規模が大きく、上下二段になっている。 上段の北側は幅20m程で広く居住性があるが、南側は幅が狭く箱堀のようになっている。

【西帯郭 】
image-1 image-1 image-1
image-1 image-1 image-1
 西帯郭の下段は上段に比べると幅が広く土塁も高く、居住性もありそうだが、 上の段と併せて二重堀とも見る事も出来る。南側に虎口のような幅が狭くなった場所があり、 そこから山麓に続いている。


【西側山麓】
image-1  城山の西側山麓は、現在公園化されて幾つかの箱物も建てられているが、 城山との間には堀のような小川も見られる。もっとも、この辺りは公園化で かなり整備されているので、どこまでが当時の遺構かは分からない。


【北帯郭 東側虎口】
image-1 image-1 image-1
 上段の西帯郭のと北帯郭との間の虎口。北側の鶴峰城方面に向かう通路の虎口にもなっている。

【北帯郭】
image-1 image-1 image-1
 本丸の北に位置する東西30m、南北20m程の帯郭。周囲には土塁が残っており、 当時は隅櫓が建てれていたらしいが、場所は特定できなかった。


【北側山麓】
image-1  城山の北側山麓は当時は三の丸だった。現在は小学校となっている。


【北側堀切】
image-1 image-1 image-1
 北側の鶴峰城とを隔てる堀切。尾根を完全に分断する規模の大きなもの。


【中門跡】
image-1  城山の東側には二の丸、三の丸が広がり、それぞれ水堀で囲まれていた。 二の丸と三の丸との間に設けられていた中門の周囲には水堀の跡が見られる。