神指城跡
【神指城跡】
慶長5年(1600)に、当時120万石の会津藩主だった上杉景勝が政治経済の中心拠点として 築こうとした未完の大城郭。鶴ヶ城を遙かに凌ぐ規模で、家老直江兼続の指揮の下に 12万人の兵が動員され、昼夜休み無く工事を急いだが、関ヶ原の戦い直前、徳川家康の 侵攻に備えて白河口、最上口の防衛体制に入るため、工事が中断された。 関ヶ原後は、上杉景勝は米沢30万石に転封となったため、未完成のまま廃城となった。 廃城の際、門などは破城され、江戸時代には鶴ヶ城の改修の為に石垣が運び去られた為、 現在は本丸と二の丸の一部に名残を残すのみだが、築城時期と廃城時期が特定出来る 貴重な城郭となっている。
【本丸跡】
輪郭式の中心に位置する本丸跡。約200m四方の広大な本丸の周囲には石垣と水堀、 東側に大手門、西側の搦手門の他、北側に北口門が完成していたと言われている。 しかし、石垣は全て鶴ヶ城の改修のために運び出されてしまったため、現在は僅かな土塁が 城の名残を留めるのみとなっている。
【本丸南側】
本丸の東西と北側には城門が設けられたが、南側は高さ20mの石垣が東西300mにわたり 築かれていたらしい。また、その周囲は幅20mの内堀に囲まれていた。
【本丸石垣】
神指城の石垣には現在の東山町の山中から運ばれた慶山石と呼ばれる石が使われた。 寛永16年(1639)に当時の領主、加藤明成はほとんんどの石垣石を神指城から運び、 鶴ヶ城の拡張に用いた。南側石垣は鶴ヶ城の西出丸に、北側石垣は鶴ヶ城の北出丸に、 大手門の巨石は太鼓門に使われた。
【本丸跡 穴太積み石垣】
周囲の石垣は、加賀の前田家から穴太衆石工の応援を得て、穴太積みで積まれた。 巨石は鶴ヶ城の拡張のために運ばれたが、裏込め石は現在も地中に多く残っているらしい。
【二ノ丸北東隅土塁】
本丸の北300m程の場所に残る二ノ丸北東隅の土塁。土塁上には『高瀬の大木』があるが、 築城前から既に大木であった事が知られており、城の鬼門に位置するこの木と北極星を基点に 縄張りをしたと言われている。なお、高瀬の大木はケヤキの巨樹として有数のもので、 現在は天然記念物に指定されている。
【二ノ丸北東隅 石垣】
北東隅土塁の西側には、慶山村「現・東山町」の山中から運んだといわれる石垣の基礎石が残されている。 これらは当初本丸にあったものだが、昭和58年にここに移され保存されている。
【二ノ丸南東隅土塁】
二ノ丸南東隅に残る土塁。田んぼの中に高さ4〜5m程の土塁が残っている。
【二ノ丸南側土塁】
二ノ丸の南側の土塁の一部が形良く残り、土塁上には如来堂が建てられている。 幕末には、新撰組がこの辺りを拠点として戦ったと言われている。 ここから西側は阿賀川の洪水で消滅している。
【二ノ丸北西隅土塁】
二ノ丸北西隅に残る土塁。こちらも田んぼの中に残っている。