Japanese Castle

二本松城

二本松城について

 室町中期に奥州探題畠山氏により築かれ、以後畠山氏歴代の居城となった。戦国期になると伊達政宗に 攻められ天正14年(1586)に落城。その後、蒲生氏郷の支城となった。 江戸期になると、二本松藩藩主として丹羽光重が入城し、幕末まで丹羽氏の居城として続いたが、 慶長4年(1868)の戊辰戦争の際に新政府軍と徹底抗戦し、城内・屋敷等の全てを消失し落城した。 現在は霞ヶ城公園として整備されている。
【箕輪門】
 二本松城の大手にあたる門で、江戸初期の城主丹羽光重の入城直後に御殿と共に最初に建てられた櫓門。 城下の箕輪村の樫の御神木を用いて建てられたので箕輪門と呼ばれている。戊申戦争時に壊されたが、 昭和53年に再建された。
【少年隊】
 箕輪門前の千人溜に建つ少年隊の像。 慶長4年(1868)の戊辰戦争時、13歳から17歳の少年62名が出陣し 果敢に戦ったが、二本松城は炎上し落城した。戊辰戦争の激戦地、大壇口戦場の少年隊の姿がつくられている。
【三の丸虎口】
 箕輪門から続く三の丸虎口。重厚な枡形の石垣が残っている。
【三の丸跡】
 三の丸は上段と下段に分かれており、下段の周囲には石垣が残っている。
【日陰の井】
 本丸石垣の南に位置する井戸。何の変哲も無い普通の井戸に見えるが、神奈川県鎌倉市の星影の井、 千葉県印西市の月影の井と共に日本三井とされているすごい井戸らしい。
【本丸跡】
 最高所に位置する本丸跡。平成になってから周囲の石垣の全面修築・復元が行われ、かなり 綺麗に整備されている感がある。

【天守台】
 本丸の北側に位置する天守台。かなり規模の大きな天守台だが、実際に天守は建てられてなかったっぽい。
【自尽の碑】
 天守台に横に建つ自尽の碑。慶応4年(1868)の戊辰戦争による二本松城落城に際して自尽した城代の丹羽和左衛門 と勘定奉行の安部井又之丞の供養碑。当初は天守台の中央に建っていたが、平成7年の本丸石垣修築復元工事の際に移設された。
【本丸東側石垣】
 訪れたのが東日本大震災の2ヶ月後だった事もあり、本丸の周辺は立ち入り禁止になっていた。 近付いてみると石垣の一部が剥がれ落ちていた。
【穴太積石垣】
 天守台東面の石垣は、端部や中央上部は江戸期後半に積み直されたが、一部は自然石と荒割石を用いた 穴太積みの石垣が残存していた。この石垣は二本松城でも最も古い石垣の一つ。石垣修築復元工事の際、 幅約12mの穴太積みの石垣部分が天守台横に移築され、現在展示されている。
【本丸二段石垣】
 本丸北側の斜面上に上下二段で構築された石垣。自然石と荒割石を用いて穴太積みで積まれており、 二本松城最古の石垣と考えられている。上段と下段の間は幅約1.6m程の犬走り状の通路となっており、 天守台の防御を目的につくられている。上下の石垣共に高さ3~4m、幅10m程残っている。
【腰曲輪】
 本丸の周囲を取り囲むように腰曲輪が取り巻いている。北側の腰曲輪からは仏具と考えられる同姓の椀が出土している事から、 畠山氏が熊野権現を祀った権現丸があった場所と考えられている。
【搦手門】
 二本松城築城時の慶長初期に頃に建てられ、その後何度か改築された事が絵図等や発掘調査などから分かっている。 平成13年の調査では、冠木門の礎石と現在残っている礎石の新旧2時期の門跡が発見された。 現在残っている礎石は、幅3.2mの高麗門だったと考えられている。
【搦手~本丸】
 搦手から本丸に至る登城路。かなり急勾配。正保城絵図には載っていないので、最近つくられた道っぽい。
【新城舘】
 二本松城が会津の支城だった時代、蒲生秀行・忠郷の二人の城代が置かれていた時代があり、それぞれ東城と西城に詰めていた。 この新城舘はその西城にあたる。平成10年~11年の発掘調査の結果、大規模な掘立柱建物跡などが見つかり、 中世から近世後半までくり返し利用されていた事が分かっている。 また、平場の南端に直径4m、深さ2mの穴に大量の焼土と炭化材が捨てられてた跡が見つかり、これは天正14年(1586)の畠山、 伊達氏の二本松攻防戦の末、畠山氏が本丸を自ら焼いて開場した後、入城した伊達氏がその後始末をした跡だと考えられている。 現在は少年隊の丘と呼ばれ、二本松少年隊の顕彰碑が建てられている。
【池】
 丹羽光重時代の庭園の名残を残した布袋滝、霞が池、るり池などが残っている。
【洗心亭】
 場内に唯一残る江戸期の建造物で、木造茅葺き、寄棟平屋造りの茶亭。当時は『墨絵の御茶屋』と呼ばれていた。
【笠松】
 別名『八千代の松』とも呼ばれる。樹齢300年以上の赤松の巨木。
【井戸】
 昭和15年頃にはとっくり井戸として知られていたが、正確な場所が分からなくなっていた井戸で、平成12年の 発掘調査により再発見された。入口の直径92cm、深さ7.95mの井戸だが、途中から径が広がる事からとっくり井戸と 呼ばれている。石の積み方などから、慶長期のものと考えられている。
【乙森】
 本丸の東側に位置する乙森。現在は駐車場になっているが、小高い森で、当時は曲輪として機能していたと思われる。
【用水路】
 丹羽光重が入城後、幕府には内密で安達太良山麓から18キロの距離の用水路つくり城内に水を引いていた。