小田山城跡



【小田山城跡】
image-1 image-1  蘆名氏により鶴ヶ城の詰めノ城として築かれた山城で、16代盛氏が永禄11年(1568)に 向羽黒山城を築くまで蘆名氏の砦として使われた。しかし、会津若松城との距離が近く、 この城を占拠されると会津若松城の防衛も危うくなる事から、上杉景勝、直江兼続は 神指城を築いたと言われている。 実際にその260年後、戊辰戦争の際には新政府軍がこの城を占拠し、会津若松城に向け 砲撃し続け、会津藩降服の最大の要因となった。 現在は小田山公園として整備されており、歴代蘆名氏の廟所や家臣の墓などがある。


【蘆名家花見ヶ森廟】
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 城山の北側山麓にある蘆名家の廟所。中興の祖と言われる16代盛氏をの墓を中心に、 西に17代盛興、東に18代盛隆の墓が並んでいる。


【大手道】
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 城山の北側の駐車場からなだらかな大手道が続き、途中蘆名家の廟所や 幕末の砲台跡などが見られるが、城の遺構は殆ど見られない。

【観音堂跡】
image-1  大手道を上ってすぐのところにある観音堂跡。6代盛員の室で、 7代直盛の母にあたる笹谷御前が文和3年(1354)に建立した観音堂がここに 建てられていたが、戊辰の役の際に焼失した。

【蘆名家廟所】
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image-1  大手道の周辺には、小田山城を築城した3代光盛から8代詮盛までの墓所が並んでいるらしいが、 藪で良く分からなかった。

【西軍砲台跡】
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 小田山城は幕末、新政府軍により占拠され、ここから会津若松城に向けて砲撃された。 大手道の途中には、その当時の砲陣跡が残っており、ここから会津若松城の天守までは 直線で1360mで、当時のアームストロング砲の射程距離1500mの射程距離内だった。 2000発もの砲弾が撃ち込まれたと言われている。


【大手口】
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 山上の曲輪の入口部分には、高さ1m程の土塁を伴う虎口が見られる。 以前はここに冠木門が再現されていたらしい。

【帯曲輪】
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 斜面を削平した幅2m〜5m程の三日月状の帯郭が数段にわたって設けられており、 明治以降に造られた登城路も、曲輪の平場が利用されている。

【砲台跡】
image-1  城山の上部にも砲台跡の碑が建てられていたが、何処に砲台があるのかは分からなかった。

【丹羽能教墓】
image-1 image-1  虎口を抜けてしばらく行ったところにある丹羽能教の墓。丹羽能教は4代の会津藩主に仕えた家老。 この墓のある曲輪はしっかりと切岸加工されており、数少ない分かりやすい遺構。 この曲輪は二の丸にあたる曲輪だったと思われる。

【田中玄宰墓】
image-1  丹羽能教の墓がある曲輪からさらに登ったところに位置する田中玄宰の墓。 はっきりした曲輪の形状にはなっていないが、この辺りが本丸に相当する場所と思われる。 田中玄宰は三代の藩主に仕え、天明の大飢饉の直後に荒廃した農村を立て直した家老として有名。 しかし、時代が違うとは言え、田中玄宰や丹羽能教ら家臣の墓が主郭部に設けられ、 領主の蘆名氏の墓が山腹や山麓にあるというのも少し変な感じ。


【物見台】
image-1 image-1  標高372mの城山の最高所に位置する物見台跡。眺望が良く、 当時はここに物見櫓のような建物が建てられていたと思われる。

【堀切】
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 物見櫓から尾根伝いに南に行くと、尾根を断ち切る堀切が残っている。 比較的規模の大きい堀切に見えるが、江戸期に墓地の石材採掘により荒らされてしまい、 遺構は不明瞭になってしまっている。