| 【大鳥城】 |
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奥州藤原氏に仕えていた佐藤元治が保元年間に築いたのが始まりで、
白鳥を埋めて守護神とした事から大鳥城と呼ばれるようになったと言われている。
元治の子の継信、忠信は源義経に従った事で有名。
文治5年に義経追討の鎌倉勢と石那坂で戦ったが元治は討ち死にし、大鳥城も落城した。
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| 【大手道】 |
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| かつての大手道にあたる東側の山麓からの登城路。道沿いに砦の跡が残っている。 訪れた日は大雪の影響で倒木も多く通行止めになっていた。 |
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| 【三の砦】 |
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| 大手道を上ると最初に現れる広大な曲輪。屋外ステージなどが設けられている。 この砦の周囲はなだらかな斜面となっており、古い時代の城という事もあってか、 切岸加工も殆ど見られず、要害性に乏しい。 |
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| 【二の砦】 |
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三の砦と大手道を挟んだ反対にある高台の曲輪。いまいち形状が分かりにくいが、
あまり広くはなさそう。
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| 【竪堀】 |
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| 二の砦の南側の谷。あまり手は加えられてなさそうだが、天然の竪堀のような地形になっている。 |
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| 【東水の手】 |
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| 二の砦と一の砦の間にある水の手。周囲を石積みした井戸で、今でも水が湧いている。 |
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| 【一の砦】 |
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東側の曲輪群の最高所にあたる曲輪。ここはしっかりと削平された分かりやすい曲輪。
あまり広くはない。
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| 【本丸】 |
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| 最高所に位置する100m四方程の広大な本丸。石碑や神社の跡があるが、 祠自体は地震で崩れてしまったのか、見当たらなかった。 |
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| 【本丸北側】 |
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| 本丸の北側は一段低くなっている。当時は区画された曲輪になっていたのだろうか? |
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| 【本丸虎口】 |
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| 本丸には現在北、南、東の3カ所の虎口があるが、いずれも技巧的な造りは見られず、 どの虎口が当時からのものかは良く分からない。 |
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| 【本丸周囲】 |
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| 本丸の周囲には現在舗装された道路がめぐっており、当時の腰曲輪の名残と思われる。 |
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| 【明地】 |
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| 本丸北側の一段下がった腰曲輪にあたる場所で、空地とも書き、戦さの時の溜まり場としても 使われていたとの事だが、規模の大きな枡形状の遺構だった可能性もある。 普段はここまで車で上ってくる事が出来、駐車場になっている。 |
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| 【明地北側土塁】 |
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| 明地の北側にわずかに残る土塁の跡。ここに土塁が築かれていたとすると、 明地は枡形としての性格を持った遺構と思われる。 |
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| 【北側】 |
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| 明地の北側の下がったところには西水の手がある。北側一帯も基本的に切岸加工が甘く、 なだらかな斜面が続く印象。古い城跡ならではの造りだろうか。 |
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| 【本丸〜矢庫】 |
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| 本丸と西側の矢庫との間の堀切。現在は堀底が舗装されて幅の広い堀底道となっている。 |
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| 【矢庫】 |
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| 本丸の西側に位置し、周囲を土塁で囲まれた独立した曲輪で、矢庫と書いてやぐらと読む。 375坪の曲輪内には武器や兵糧などが貯蔵されていたと思われる。 |
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| 【西側空堀】 |
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| 矢庫の西側の空堀跡。尾根続きの西側の守りとして、唯一しっかりと掘られた遺構のように思える。 記録によると深さ10m、幅5mと記されており、今でも良く残っている。 |
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| 【四の砦】 |
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城域からかなり東に下った場所にある四の砦跡。この辺りは既にどのような形状の曲輪があったか分からない。
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| 【御荷越の坂】 |
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城域南東側の急坂。当時の登城路の一つだったと思われる。
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| 【大手門跡】 |
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城域東側の緩やかな斜面の中腹にある大手門跡。ここで道が折れ曲がっているが、
どのような形状の門があったかは良く分からない。
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| 【古】 |
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文治5年(1189)の石那坂の合戦後、伊達四郎為家により築かれ、天正17年(1598)に
伊達政宗に従って米沢に移るまでの約300年間、代々坂氏が平素の館として居住した。
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| 【十綱橋】 |
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飯坂温泉の駅付近にある摺上川にかかる橋。文治5年(1189)大鳥城主佐藤元治は
義経追討の鎌倉勢を迎え撃つ為、この橋を切り落とし、石那坂の合戦に赴いた。
その後は両岸に綱を張り船を渡していたが、明治になりアーチ式の木橋が架けられた。
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| 【出没注意】 |
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| この辺りは熊や猿や放射線など、色々なものに注意しなくてはならないらしい。 |
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