明智長山城



【明智長山城】
image-1  康永元年(1345)に土岐頼兼が名字を明智と改めて初代明智家棟梁となり、明智城を築いた。 その後200年以上にわたり明智家の本拠となり、明智光秀生誕の城としても有名。 弘治2年(1565)に斉藤道三と義龍の争いの際に義龍に攻められ落城した。 城は標高175mの山頂に本丸を築き、峰沿いに幾つかの郭を配置する中世山城だが、 土塁や堀切などは殆ど見当たらず、城らしい遺構には非常に乏しい。 現在は城址公園となっている。


【大手口 桔梗坂】
 城の北東の大手口から、大手曲輪、中の曲輪と東出丸曲輪との間を通り二ノ丸に至る なだらかな大手道が続いている。桔梗坂とも呼ばれており、途中には大手門が復元されている。
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【大手郭】
 大手口を見下ろす位置にある大手曲輪。自然地形そのままの尾根のような曲輪で、 堀切なども見られない。
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【二ノ丸曲輪・馬場】
 大手道を上りきったところにある二ノ丸曲輪・馬場。周囲に土塁もなく、 二ノ丸曲輪と馬場の境は良く分からない。明智光秀生誕の地ののぼりが多数かけられていた。
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【馬場】
 馬場の南側に建てられた馬防柵と七つ塚。七つ塚は落城の際の戦没者が葬られているらしい。
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【本丸】
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image-1 image-1  標高175mの山頂に位置する本丸。この辺も土塁や堀などの城らしい遺構は全く見られない。 切岸加工も殆どされておらず、要害性に乏しい。


【南側】
image-1  本丸の南側はすぐ近くまで住宅地が迫っている。それだけなだらかな山という事でもある。


【北側】
image-1 image-1  北側の比高は60m程あり明智の郷を見渡す事が出来、金山城も見れる。


【本丸〜西出丸】
image-1 image-1  本丸と西出丸との間には辛うじて堀切状の地形が見られる。この堀底道が搦手となっている。


【西出丸】
 本丸の西に位置する西出丸。平地ではなく居住性には乏しい。すぐ西側まで住宅地が迫っており、 この辺にも堀切などがあった形跡はない。
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【搦手】
 本丸と西出丸との間の堀底道が搦手となっており、西大手方面に続く道だが、倒木がひどく 通行止めになっていた。確かに遊歩道も崩れてひどい状況。あまり整備されてないらしい。
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【西大手曲輪・乾曲輪・見晴台】
 搦め手を進んだ先にある西大手とその先にある乾曲輪・見晴台。この辺りも基本的には自然地形を 利用した曲輪とみられるが、切岸加工などにわずかに城らしい雰囲気が残っている。
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【西大手 六親眷属幽魂塔】
image-1 image-1  昭和48年に西大手曲輪で埋められた状態で発見された石塔。歴代の明智城主の慰霊塔とみられるが、 当時逆臣の明智家の慰霊塔を建てた事が見つかると重い処分を受ける為、埋めていたものと思われている。


【光蓮寺】
image-1 image-1  城の北側麓にある光蓮寺。江戸時代になって建てられた寺だが、城が機能していた当時は この辺りに居館が建てられていたかもしれない。


【天龍寺】
 城の北東にある明智一族の菩提寺で、寺の裏手に歴代当主の墓がある。 また、本堂には日本一大きな光秀の位牌が祀られている。
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