本丸・東曲輪
本丸・東曲輪
【六段石垣】 |
本丸の北東面に六段の雛壇状に築かれた石垣。六段壁とも呼ばれ、岩村城の代名詞的な石垣となっている。当初は最上部のみの石垣だったが、
崩落を防ぐ為に補強を繰り返し、現在のような石垣になった。見事な石垣だが、高石垣を築く技術が無かった頃の苦肉の策とも言えるだろう。
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【東曲輪虎口】 |
六段石垣の東側に位置する東曲輪の虎口。本丸へはまずこの虎口から東曲輪に入り、長局を経由して東口門から入る造りになっていた。すぐ横には二重櫓が建てられ、厳重に虎口を守っていた。
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【東曲輪】 |
本丸の東側一段下がった場所に位置し、本丸の外枡形的機能を持った曲輪。南北二段に分かれ、北東隅には二重櫓が建てられていた。周囲の石垣が良く残っている。
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【東曲輪 南側虎口】 |
東曲輪の南半分には石垣が築かれておらず、この城にしては珍しく土作りになっている。この方面にも搦手に通じる通用口のような虎口があったと思われる。
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【長局埋門跡】 |
本丸の東側一段下がった場所に位置し、本丸の外枡形的機能を持った曲輪。南北二段に分かれ、北東隅には二重櫓が建てられていた。周囲の石垣が良く残っている。
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【東口門跡】 |
本丸の東側、長局との間にある門で本丸の正門にあたる。内枡形の石垣が良く残っている。当時はこの石垣の上に多門櫓が建てられ、門を守っていた。
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【東曲輪~長局 埋門跡】 |
東曲輪の南側の一段高くなった曲輪と長局との間の門跡。本丸に至る主要ルートではないので、長局埋門と比べるとだいぶ簡素なつくりになっている。
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【長局跡】 |
本丸の東側、東曲輪との間に位置する南北に細長い曲輪。本丸と長局の間には東口門の他に、昇竜の井戸の横にも虎口があったと思われる。
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【本丸跡】 |
岩村城の最高所に位置する曲輪。100m四方ほどの曲輪の周囲には二重櫓2棟、多聞櫓2棟が建てられていたが、当時から内部に建物はなく、広場となっていた。現在も櫓台などが残っている。また、織田信長は本能寺の変の80日前に明智光秀らと共にここに宿営し、ここで武田家滅亡の報を聞いたらしい。
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【多門櫓跡】 |
本丸の東西には多門櫓が建てられていた。その石垣が今でも良く残っている。
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【昇竜の井戸】 |
本丸の東側、長局との間の石垣上に掘られた井戸。現在は埋められている。これでは岐阜の名水50選には選ばれない。
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【北側埋門跡】 |
本丸の北側、二の丸から本丸に至る埋門跡。複数回クランク状に曲げられ、3箇所の門が設けられている厳重な造りだった。
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【納戸櫓跡】 |
本丸北側の埋門横に設けられていた納戸櫓跡。この櫓台上に当時は二重の納戸櫓が建てられ、埋門を守っていた。
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【本丸北側石垣】 |
本丸北面、埋門より東側の石垣は江戸初期の築城当初のものと考えられている。
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【北側虎口跡】 |
本丸の北東、長局から続く腰曲輪との間の虎口。急な石段と門の礎石が残っている。
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【本丸西側】 |
石垣が二段になり、その間は犬走りのような構造になっている。絵図を見ると、この犬走り状の通路を通って本丸に入る虎口もあった事が分かる。
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【南西隅櫓台】 |
本丸には北西の納戸櫓の他に、南西隅にも二重櫓が建てられていた。現在も櫓台跡と見られる土塁が残っている。
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【本丸南側】 |
本丸の南側は一部石垣が築かれているが、基本的には急峻な土塁になっている。この辺りだけ中世城郭のような雰囲気で良い感じ。
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