加納城



【加納城】
image-1  慶長6年(1601)、岐阜城落城の翌年に徳川家康により、豊臣方への抑えとして 築かれた規模の大きな水堀に囲まれた近世平城で、多くの建物や石垣などは 岐阜城から運ばれたと伝えられている。軍事上重要な交通の要衝だったことから、 家康の長女亀姫の娘婿の奥平信昌が入城し、江戸時代を通じて岐阜の中心となった。 その後、大久保氏、戸田氏、安藤氏、永井氏と続いて明治維新に至った。 現在は国の史跡に指定されている。


【本丸跡】
 東側に外枡形を設けた広大な矩形の本丸。周囲には石垣と土塁が残り、 内部は現在公園となっている。
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【本丸北側】
 北側は中央に虎口が開き、その両側は高さのある石垣が残っている。 当時は櫓門のようなものが建てられていたと思われる。西側の石垣は一部が崩れてしまっている。
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【本丸北側堀跡】
image-1  本丸北側の堀跡は広場になっているが、大雨の影響で水堀のようになっていた。


【本丸東側虎口】
 本丸東側に残る虎口跡。大手にあたる門で、二ノ丸からの木橋がここに架けられていた。 木橋を渡った場所には筋鐵門があり、門入った場所は規模の大きな外枡形になっていた。 本丸から突き出した形状が良く残っている。
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【鐵門跡】
image-1  東側の外枡形の入り口の部分は土塁により狭められた部分があり、 ここに鐵門があったと思われる。


【本丸東側石垣】
 東側は石垣のすぐ近くまで民家が迫っており、外枡形の部分の石垣は かなり崩落が進んでしまっている。
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【本丸南側石垣】
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image-1  南側は一面にわたり野面積みの石垣が状態良く残っている。岐阜市近傍の山で産出する チャートで出来た珍しい石垣で、これら石垣の石材は岐阜城から運ばれたものと言われている。 自然石ながら角は算木積みになっている。

【南側虎口跡】
image-1 image-1  南側の中央部にある虎口跡当時は食い違いの虎口で 『臆病門』 と呼ばれる門が 建てられていたらしいが、現在は平虎口になっている。

【本丸南側堀跡】
 本丸南側の堀跡。北側の堀跡同様、大雨の影響で水堀のようになっていた。
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【本丸西側石垣・土塁】
 本丸西側の石垣。木が立ち並び石垣が見えにくいが、他の面よりも高い石垣と土塁が残っている。 中央部には櫓が建てられていた。
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【本丸西側堀跡】
 西側の堀跡は公園となっており、プールや遊具が置いてある。 こちらもすっかり水堀になっている。
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【天守台】
 本丸北西隅に残る天守台跡。実際にはここに天守は建てられなかったらしいが、 周囲より土塁が幅広く重厚に造られているのが分かる。
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【北東隅櫓台跡】
 北東隅に残る櫓台の跡。内側の石垣も一部残っており、他の櫓台と比べても一番状態が良い。 かなり大きめの櫓が建てられていたらしい。
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【土塁】
image-1  『土塁上に上がらないで下さい』 との看板があるが、その横には階段があり遊歩道のようになっている。 どう理解すれば良いのだろうか?


【二ノ丸石垣】
 現在、二ノ丸跡は岐阜地方気象台となっているがその周囲の石垣は比較的良く残っている。 東北隅には岐阜城の天守が御三階櫓として移築されており、その櫓台跡も残っている。 天守自体は享保13年(1728)の大火で焼失したが、この天守はいわくつきのもので、 岐阜城の天守は道三時代、築城時に城の秘密を知っていた大工が生き埋めにされ、 加納城に移ってからもその軒下をくぐった人は死ぬと言われていた。
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【三ノ丸跡】
image-1 image-1  二ノ丸の北側には幅22〜23m程の堀を隔てて三ノ丸があった。現在、堀跡は小学校の グランドになっており、三ノ丸があったと思われる付近には土塁の一部が残っている。


【荒田川】
image-1  城域の東側を流れる荒田川。外堀として機能すると同時に、 この川の水を堀に引き入れて巨大な水堀を造っていた。


【17時閉園】
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image-1  ちなみに、この加納城はやたらと門限に厳しい。案内板の数より17時閉園の看板の方が多く、 すみやかに出ろとか書いてある。一見ただの公園で、壊されそうな貴重な遺構があるわけでもないのに、 何故ここまで?国の史跡という事もあるのだろうか? しかし、夏場とかはもう少し遅くまで 開けててくれても・・・