後閑城



【後閑城】
 嘉吉元年(1441)に信濃の御嶽城主依田氏によって築かれたと言われている。 戦国期は武田氏の過信の後閑氏の居城となり、武田氏の滅亡以降は北条氏に従った。 小田原の役で、後閑氏は小田原に籠城し、後閑城は松井田城の大道寺政繁の指揮下に入ったが、 北条氏の滅亡と共に廃城となった。現在は非常に良く整備された公園になっている。


【西第三郭】
 城の西側は階段状に郭が造られており、その一番下の西第三郭は現在は駐車場になっている。


【西第二郭】
 西第二郭の横矢は曲線的な形状になっている。良く整備されており、非常に分かりやすい。


【西第一郭】
 西第二郭の上に連続的に造られている西第一郭。西第二郭程明瞭ではないが、こちらも 弓形の横矢がかかっているのが分かる。


【本丸虎口】
 西側の郭郡を登ったところにある本丸の虎口。冠木門が建てられている。

【本丸】
 本丸には庚申塔がひたすら並んでいる。江戸時代に近隣の人々により建てられたもので、 128基もあるらしい。少し異様な雰囲気。

【本丸北側】
 本丸は南北二段に区画されており、北側は一段低くなっている。 現在は東屋が建てられている。


【東郭】
 本丸の東側一段下がったところに位置する東郭。北第一堀切、二の丸と連絡している。

【東郭 虎口】
 東郭から二の丸方面に向かう虎口には枡形のような地形が残っている。

【東郭群】
 東郭の下には小郭郡が連続的に造られている。この先に駐車場があり、そちらからも アプローチできたらしい。

【東郭群】
 東郭群の横堀に畝のような土盛りがあったが、当時からの遺構なのかは良く分からない。


【本丸〜二の丸】
 東郭から南に下りていくと、二の丸が見えてくる。二の丸との間は大堀切が 掘られ、一城別郭式と言われる構造になっている。


【二の丸 櫓】
 二の丸の大堀きりに面した部分には他の部分より一段高くなったは櫓台が残っており、 発掘調査の結果、柱跡が確認されている。現在は物見櫓櫓が推定復元されている。


【二の丸】
 二の丸は、櫓台の先で2つの区画に分けられており、その間は堀切で隔てられている。


【本丸〜二の丸】
 本丸の南側は急崖になっており、当時は二の丸から南郭方面は通れなかった。 現在は管理用通路が造られている。


【南郭】
 現在は東屋が建てられている。南郭の外側は、わりと緩やかな地形が続いているように見えるが、 特に大きな堀切などは見当たらない。

【本丸〜南郭】
 本丸と南郭との間の堀切。二の丸との間の大堀きりと比べると規模は小さい。 管理用通路が造られているので、どの辺までが当時のままかは良く分からない。


【北第一堀切】
 尾根伝いの北側は特に厳重に守られており、北郭との間は2重の堀切で守られている。 北第一堀切は一番本丸側の堀切で、規模も大きい。

【北第二堀切】
 本丸と北郭を隔てる二重堀の北郭側。こちらも規模が大きく、西下の方まで掘られている。


【北郭】
 東西に階段状に続く北郭。南北には北第二堀切と北第三堀切が掘られ、尾根続きの北側からの 守りを固めている。


【北第三堀切】
 北郭の北側の堀。第一、第二堀切と比べると規模が小さい。