【西矢倉台西堀切】 |
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【桟道】 |
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西矢倉台西堀切の南側から西櫓台までの斜面からは16個の柱穴が見つかり、当時は丸太で造られた 桟道が架けられていた事が分かる。西城が落とされた際には壊せるよう、簡単な造りだったと思われる。 現在も木製の桟道が復元されているが、老朽化で通れない状態だった。 |
【西矢倉台下堀切】 |
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西城から本丸との間に掘られた2本目の堀切。現在は北側が埋められて遊歩道となっているが、 当時は北まで堀切が続いていた。西矢倉台西堀切のように通路として使われた跡はない。 |
【西矢倉台】 |
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現在は北側の遊歩道から西矢倉台に至るが、当時は桟道を通る南側からの道が使われていたと思われる。 南側には石垣と虎口が跡の石段が残っている。また、北側には石が散乱しており、当時は北側にも石垣が あったものと思われる。 |
【石敷通路】 |
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西矢倉台から物見台方向には石敷の通路が続き、途中段差が見られる。山麓の資料館の説明によると、 攻めてきた敵にはこの段の先の道がなくなっているように見える との事だったが、 これくらいの段差では、そんな事はなさそう。当時はもっと高低差があったのだろうか。 |
【物見台下堀切】 |
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石敷通路の先には、物見台下の岩盤を掘った巨大堀切と堀切にかかる土橋、土橋の先の櫓台を 伴った虎口に突きあたる。幅の細い土橋をわたろうとすると正面の櫓台と物見台から集中的に 攻撃を受ける堅固な造りになっている。また、土橋をわたった場所にある虎口はかなり幅が狭く、 通りにくくなっている。 |
【馬場下 石敷通路】 |
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【竪堀】 |
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【木橋】 |
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【建物跡】 |
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【馬場下曲輪】 |
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馬場下通路の南下に位置する馬場下曲輪。東側は竪堀に沿った石垣に面している。 発掘調査の結果、建物の柱穴がの他、地鎮などのまじないに使われたと思われる土器なども見つかっている。 |
【馬場】 |
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【馬場 建物跡】 |
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【物見台】 |
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馬場の西端に位置する物見台。ここは長手口と太田口とを見張れる眺望の非常に良い場所で、 上杉謙信も金山城を攻める際に、この物見台の死角となる藤阿久に陣を構えたと言われている。 また、物見台の基壇は自然の地形に沿った台形で、中央からは矢倉のものと思われる柱穴が 4本発見されている。現在は展望台が建てられている。 |
【馬場曲輪】 |
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西側からの登城路の本丸手前に位置する馬場曲輪。上下二段の石垣と、弧を描く根石列で区画された 小曲輪からなっている。発掘調査の結果、240以上の柱穴が見つかり、少なくとも5回は建物が 建て替えられていた事が分かった。現在、それらの建物跡の一つを利用して四阿が建てられている。 また、曲輪自体も3回造成されており、頻繁に作り替えが行われていた。 |
【馬場曲輪 排水路】 |
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【大手口】 |
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大手虎口の西側の谷間が当時の大手口。周囲を高い石垣に囲まれた枡形になっていた。 現在は発掘中だったが、枡形が分かる。 |
【長手口古道】 |
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