Japanese Castle

白井城

 利根川と吾妻川の合流点の断崖と急流を利用した要害に築かれた崖城。正確な築城年は不明だが、その造りから永享年間(1429~1441年)頃に山内上杉氏の重臣である長尾景仲によって築かれたと考えられており、白井長尾氏の本拠城として機能した。永禄12年(1569)に武田信玄が上野に侵攻した際、真田幸隆・信綱勢に攻め落とされたが、真田勢が引き上げたため白井長尾氏が復帰。その後も白井長尾氏は武田氏や北条氏に従属し、戦国期を乗り切るが天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家・上杉景勝に攻められて開城している。その後、家康家臣の本多康重に与えられ、沼田城の真田昌幸を抑える前線基地として機能した。江戸時代になると徳川譜代の小大名が入れ替わり、元和4年(1618)に入った本多康重の次男紀貞が元和9年(1623)に跡継ぎのないまま死去すると白井藩は廃藩となり、城も廃城となった。その後の詳細は不明で、明治期には農地となっていたと考えられるが、大きな地形の改変がなく堀や土塁などの縄張りがよく残っている。

北郭

【北郭】
 城域の北側に位置する北郭。広大な郭で現在は農地となっている。この郭の北西部にも金比羅郭が設けられていたが、明瞭に周囲が確認できたのはこの郭あたりまで。
【城山不動】
 北郭の東隅に位置する城山不動。大手虎口が設けられていた場所にあたり、この土塁上には大手を見張る櫓が建てられていたものと思われる。ちなみに、現在はこの社の中に不動明王がいらっしゃるらしい。

三の丸

【北郭~三の丸】
 北郭と三の丸とを隔てる空堀。だいぶ埋まってしまっている感はあるものの、幅の広い屈曲した堀跡がしっかり残っている。現在は、堀底まで畑地として利用されている。
【三の丸】
 三の丸。この辺りも一面畑地だが、切岸がはっきりと分かる。

二の丸

【三の丸~二の丸】
 三の丸と二の丸との間を隔てる空堀。土橋から西側は三の丸の空堀同様、幅の広い屈曲した箱堀で農地に転用されている。この辺りは当時は水堀もしくは泥田堀だった可能性もある。東側部分は次第に深くなり、東側の空堀と接続している。

【二の丸土橋】
 上記の空堀に設けられている土橋。現在は舗装され、車が通れる程の立派な土橋。
【二の丸】
 城域は北に広がる三角形の台地なので、南側の主要部に行く程、少しずつ曲輪は狭くなっていくが、それでも十分な広さを確保している。ここも現在は全面が農地に転用されている。

本丸

【二の丸~本丸】
 二の丸と本丸とを隔てる空堀。土橋から西側は深さ約10m、幅約20mに及ぶ規模の大きい直線的な箱堀となっており、城域西側の断崖まで続いている。
【本丸土橋】
 本丸への唯一の登城口となっている非常に形の良い土橋。現在は舗装された車道になっており、本丸まで車で行けるようになっているが、通るのに少し緊張するくらいのくびれた形状になっている。
【三日月堀】
 二の丸と本丸とを隔てる堀の土橋から東側は三日月堀となっている。非常に形良く残っており、東側で横堀と接続している。三日月堀と言えば武田氏で、実際に白井長尾氏は一時期武田氏にも従属しているが、その時期のものというよりは、徳川時代の改変によるものと考えた方が自然な気がする。訪れた時は普通に空堀だったが、時期にってはぬかるんで泥田堀のようになっているらしい。当時も泥田堀もしくは水堀だったのかもしれない。

【本丸虎口】
 上記の土橋を渡った場所に設けられている本丸虎口。約15m四方の内枡形となっており、西面には高さ4m程の野面積みの石垣が残っている。この石垣は太田道灌が指導したとの伝承が残るが、実際には井伊直政が改修した箕輪城の石垣との共通点を指摘されており、江戸初期の本多氏の時代に拡張・整備されたものと思われる。

【本丸櫓台】
 本丸虎口の東側に残る櫓台。この土塁上に櫓を建てて本丸虎口を守っていたのだろう。
【本丸】
 城域の南端に位置する本丸跡。西側を除く周囲には高さ3~4mの土塁が巡らされており、 現在は本丸のみが公園化されている。

【本丸西面】
 吾妻川に面した本丸の西側には土塁が築かれていない。この方面は吾妻川の急流に守られているため、土塁を築く必要がなかったのかもしれないが、川によって浸食されている可能性もある。
【笹曲輪】
 本丸南端の土塁下の隠れた場所に位置する、一辺15m程の三角形の小曲輪。一見すると馬出のようにも見えるが、周囲は断崖なので、そういう事でもなさそう。
【本丸東側空堀】
 今度は本丸北側の三日月堀まで戻り、堀底を東側に進んでみると、本丸~三の丸まで続く一段深くなった横堀と合流する。一応遊歩道のような感じになっているが、時期のよっては泥田堀のようにもなるとの事。この辺りは一つ一つの堀の規模もかなり大きく、ぬかるみだったらとても歩く気にはなれない。
【本丸東側空堀】
 上記の堀底を通って本丸東側の空堀へ。外側に土塁(帯曲輪)が築かれた深さ5m~6m程の形の良い薬研堀。
【本丸東側空堀】
 本丸東側の空堀は笹曲輪の南まで直線的に続き、南端は吾妻川の断崖まで続いている。これ以上は危険で進めない。
【本丸帯郭】
 本丸の東側、空堀の東側に設けられた帯曲輪。手を加えた形跡もあるが、全体的には削平が微妙で半分自然地形のままになっている。未完成の曲輪だった可能性もある。
【本丸帯郭に残る石】
 上記の帯曲輪や空堀には、石がまとめて置かれた場所が複数見られる。山城などでは、攻めてくる相手への投石用の石つぶてが置かれているのを目にする事があるが、ここは場所的にも石の大きさ的にも違う。帯曲輪の中途半端感と合わせてみると、これから石垣を伴う曲輪を造成しようとしていたのかもしれない。急に廃藩になっているので、そのまま放置されたのかもしれない。
【二の丸帯郭】
 本丸東側の帯曲輪はそのまま二の丸の東側方面まで延びている。
【三の丸帯郭】
 上記の帯曲輪は三の丸の東側まで続いているが、幅が狭くなり犬走状の土塁のようになっている。また、帯曲輪から三の丸に至る土橋も見られる。
【神明宮】
 三の丸帯曲輪に建てられている神明宮。帯曲輪上に祠が建てられており、その祠まで石段が設けられているので帯曲輪までの高低差がわかりやすい。祠の背後は三の丸周囲の空堀。
【南曲輪・新曲輪跡】
 本丸の東側下の平地部分には、拡張された南曲輪・新曲輪が広がっていた。現在は農地と市街地になっている。
【白井宿】
 城域の東側に位置する白井宿。白井城の城下町にあたる場所で、現在も江戸時代の町並みが残る。当時の外郭ラインはこの集落まで取り込んでいたらしいので、総構えみたいな雰囲気だったのかもしれない。