Japanese Castle

高崎城

高崎城について

 古くから和田城と呼ばれる城が築かれていた場所で、上杉、武田、北条の境目の城として機能していたが、小田原征伐の際に落城し廃城となった。その後、慶長3年(1598)に当時箕輪城主だった井伊直政がこの地に近世城郭を築き、箕輪城から移って来た。この時に『高崎』と名付けられたらしい。郭内だけでも5万坪を超える広大な城郭で、江戸期を通じて高崎藩の藩庁として機能した。また、徳川家光の実弟である忠長がこの城に蟄居し、寛永9年(1633)に自害した事でも有名。明治期になると、軍の駐屯地として使用され、多くの建造物は移築もしくは破却されたが、現在は高崎城址公園として整備されており、三の丸外囲の堀と土塁の他、乾櫓や東門などが残ってる。
【乾櫓】
 群馬県内に唯一の現存城郭建築となっている乾櫓。現在は三の丸の東隅に移築されていおり、一体何が『乾』なのか分からないが、当時は本丸北西隅に位置し、天守に相当する御三階と接続していた。なので乾櫓。昭和49年に市内の農家に払い下げられ移築されて納屋として利用されていたが、県の重要文化財に指定されたと言う事で巻き上げられたらしい。ちなみに、櫓台の石垣は偽物。
【東門】
 乾櫓のすぐ横に移築されている東門。こちらも当初は本丸の東側に建てられていたらしい。なので東門。乾櫓同様、市内の農家に払い下げられていたらしいが、昭和55年(1980)に乾櫓近くに移築復元された。現在は市の重要文化財に指定されている。
【石垣】
 乾門が移築されている音楽センター付近には、それっぽい石垣も見られるが、これらは復元。
【水門】
 上記の石垣の中に、完全に偽物っぽいトンネルが見られたが、これは実は調査の際に発見された石垣水路と石樋の一部を移築再現したものらしい。
【水堀】
 現在は市街地化が進んでしまっているが、三の丸周囲の土塁と水堀がほぼ全周にわたって良く残されている。水堀の幅は10m程度で、紅葉の時期だったので、結構綺麗。土塁も重厚に造られていたのが分かる。