Japanese Castle

広島城 本丸

本丸

【本丸】
 広大な水堀に囲まれた標高7m程の本丸跡。太田川の水を引き込んだ水堀は、広いところでは幅100mあるらしい。北西隅に天守が建てられ、周囲には多くの櫓が建てられていた。また、内部は上段と下段に分かれ、御殿などの多くの建物が建てられていたが、明治期に多くが取り壊され、残った建物も全て原爆により倒壊・焼失した。
【本丸櫓台】
 本丸の周囲に残る櫓台石垣。これらの石垣上に当時は二重櫓が建てられており、本丸だけで計23基の櫓があったらしい。浅野氏の頃にも度々修築が繰り返されていたようで、比較的新しそうな石垣も見られる。

【南面石垣】
 本丸南面の石垣の隅部には、下部と上部とで積み方が異なる部分がある。下部は算木積の完成度が低く毛利期の石垣と見られるが、上部は完成した算木積になっており、福島正則の頃に築かれたものと思われる。福島正則が元和5年(1619)に、その2年前に起こった大規模水害で破壊された石垣を幕府に無断で修理し、安芸・備後を没収のきっかけとなった石垣と考えられている。
【本丸土橋】
 本丸の南側、二の丸との間は土橋で繋がっている。二の丸からはこの橋を渡り、中御門を通り本丸に至る。
【中御門跡】
 本丸の南側、二の丸から通じる大手虎口にあたる中御門跡。内枡形を構成する石垣上には櫓門が建てられており戦前まで残っていたが、原爆時の火災で焼失した。現在は石垣のみが残っている。
【中御門石垣】
 中御門の石垣は、天守台石垣とともに毛利期の石垣が残っている数少ない場所。原爆時の建物の火災により石垣が一部変色している。
【本丸下段】
 本丸は北側の一段高くなった上段と南側の下段とに分かれており、中御門から入った場所は下段にあたる。当時下段には馬場があったが、現在は護国神社の境内となっている。
【本丸上段】
 本丸北側を占める本丸上段。当時は御殿や屋敷などが建てられていたが、明治7年(1874)に本丸御殿が焼失し跡形もない。現在は内部に大本営跡などが残る他、周囲には福島正則改易のきっかけとなった石垣なども残っている。ちなみに、ここは原爆の爆心地から900m程の距離で、被曝した樹木なども見られる。
【本丸上段北東隅石垣】
 毛利氏の頃は、本丸上段の周囲には石垣が築かれていた。しかし、福島正則が幕府から無断修築を咎められ本丸以外の修築分を破却するように命じられた際、本丸上段の石垣のみを破却した。これを口実に安芸・備後を没収されてしまう。その頃に取り壊されたものと思われる石垣が、現在も本丸の北東隅に見られる。確かにこの辺の石垣なら、壊しても城の防御的にはたいした影響はない。関ヶ原で活躍し、ある意味徳川幕府の立役者の一人でもあった福島正則にとって、秀忠の言う事など素直に聞く気にはなれなかったのだろう。
【本丸上段北面の石垣】
 北東隅の石垣は破却されているが、それ以外の北面の石垣はしっかりと残っている。これでは幕府にいちゃもん付けられても仕方ないかも・・・
【本丸上段周囲】
 本丸上段の石垣は、上記の北面と西面に一部が残っているが、それ以外の部分は取り除かれ土塁状になっている。嫌々ながらも一応壊した部分。
【本丸上段西面の石垣】
 本丸上段の西側にも石垣が残っている。高さは2m程で、一部は積み直されているかもしれないが、かなり古い時期の石垣に見える。恐らく毛利期のものだろう。
【広島大本営跡】
 本丸上段内に残る広島大本営跡。日清戦争の頃に日本軍の最高統帥機関だった大本営が置かれた場所で、実際に明治天皇が約7ヶ月間ここに滞在していたらしい。洋風の二階建ての建物が建てられていたが、原爆により倒壊し今は基部のみが残されている。
【天守台礎石】
 天守台横に並べられている礎石は、昭和33年の天守再建の際に掘り起こされ、元の配置のまま移されたもの。流石にかなりの大石が使われている。
【裏御門跡】

 本丸の東側に設けられた裏御門跡。中御門同様、両側の石垣上櫓門が建てられていたが、昭和初期には既に建物が失われていた。いつ頃取り払われたかは分かっていない。それにしても、大手を馬出し状の二の丸で厳重に守っている割に、こんな門を造ってしまって良かったのだろうか?