三原城跡
三原城跡について
永禄10年(1567)に小早川隆景により、瀬戸内海に面した島をつないで築かれた海城で、毛利水軍の重要な拠点として機能した。満潮時には城が海に浮かぶように見えたことから別名「浮城」とも呼ばれている。関ヶ原後は福島正則の支城となり、この頃に大幅に修築され東西900m、南北700mに及ぶ大城郭になったと考えられている。福島正則の改易後は広島藩浅野氏の支城となり、一国一城令後も例外的に存続が認められ幕末まで続いた。明治期になり廃城となり、多くの建物や石垣が壊され、周囲は埋め立てられ市街地化が進み、この頃に山陽鉄道が本丸を貫いて通された。現在は天主台や舟入櫓などの一部の石垣が残るのみだが、国の史跡に指定され、整備が続けられている。
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【天主台入口】 |
現在、山陽本線が本丸を貫いており、天主台へは駅構内から登るようになっている。こんな城跡は初めて見た。まさに駅徒歩0分の駅近物件。これはこれで面白いが、この線路を通すために遺構が破壊されてしまっているのは残念。まぁこの鉄道が敷かれた当時は遺構保存なんて事は考えていない時代だからな。それはそうと、ここの天守台は何故か安土城と同じく『天主台』と書くらしい。
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【天主台】 |
本丸の北側に位置していた広大な天主台。広島城の天守台の6倍、国内最大級の江戸城と同規模の広さの天主台だが、一度も天守が建てられた事はなかった。と言うより、この城は最初に天守が築かれたと言われている安土城よりも10年も前に築かれており、時期的にもこの天守台いっぱいの天守を築く想定などなかっただろう。実際には隅部に二重櫓が建てられ、それらが多門櫓で繋がれていた。現在、天主台内は公園になっている。
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【天主台石垣】 |
海上に築かれた高さ13mに及ぶ天守台の石垣。東西で積み方が異なり、東面の積み直しされた部分以外は小早川隆景の頃に築かれたものと見られ、非常に高い技術で積まれている。現地解説版によると、この石垣の積み方は『アブリ積み』と言う特殊な積み方らしいが、正直どの辺が野面積みと違うのかはよく分からない。また、東面は隅の算木積などが西面に比べると新しい事などから、福島正則の頃に積まれたと言われているが、宝永4年(1707)の大地震の際に2万5千人を動員して修理したらしいので、この頃の石垣かもしれない。
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【天主台東側石垣】 |
福島正則の頃に築かれたとされる天守台の東面。西面に比べると勾配が緩やか。地震後の北東面積み直しの際は、『元のごとく成りがたかりしを・・・』とあるが、これはこれで十分立派な石垣ですよ。
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【天主台~本丸石垣】 |
天守台と本丸との接続部分。天守台は本丸より2m~3m高くなっている。当初から、本気でこのサイズの天守を建てるつもりはなかっただろうと思うが、本丸の一部と言った感じでもない。どういうつもりで、このような巨大な天守台を築いたのだろう?
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【天守台周囲の水堀】 |
天守台の周囲には幅約30mの水堀が残っている。当時はこの堀の水は海水だったが、現在は淡水になっている。この堀沿いに当時の主要な道路だった西国街道が通っており、海とともに街道も抑える要衝だった事が分かる。
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【保存整備工事】 |
天主台の周囲は広範囲にわたって保存整備工事が行われていた。発掘調査の結果、西側からは武家屋敷の長屋門の礎石や西国街道の跡などが見つかっているらしい。天守台にも案内板が出来そう。整備が終わったらまた来てみたいものだ。
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【後藤門跡】 |
天主台北側には後藤門跡の石垣も整備されていた。西国街道上に設けられていた門だったが、市街地化で石垣が取り除かれていた。訪れた時はちょうど整備途中だったが、近く案内板も設置される事だろう。周囲からは門に使われていたと思われる瓦なども見つかっているらしい。
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【二の丸石垣】 |
天守台から東側の石垣を見ると、石垣が途切れている部分が見られるが、古絵図と見比べると、二の丸の北端部分だったと思われる。当時はこの隅に櫓が建てられていた。
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【本丸跡】 |
線路に貫かれた本丸跡。本丸南口周辺は当時の本丸内。西側のホテルなどが入った建物の影に石垣跡が残っている。
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【本丸西側石垣】 |
本丸西側に残る石垣。北側は比較的当時の石垣っぽいが、南側は明らかに積み直されている。この石垣前の堀は、現在は幅5m~6m程だが、当時はこの倍位の幅があり、南側で海と繋がっていた。
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【本丸中門跡】 |
本丸中門跡。古絵図によるとこの辺りは二の丸だったように見えるが、本丸らしい。当時は門と櫓が建てられており、門前の土橋から馬出し状の曲輪へと続いていた。当時は櫓32、城門14を有する大城郭だったが、現在は一つも残っていない。現在は石垣の切れ目が建物への入り口になっている。
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【臨海一番櫓跡】 |
上記の中門の南側、本丸南西隅に建てられていた臨海一番櫓の跡。現在は周囲が埋め立てられているが、当時は海に面した櫓で、ここから東側の海沿いに2番~5番(舟入櫓)まで続いていた。現在は石垣が残るのみで、その石垣も積み直しっぽい。
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【本丸東側石垣】 |
本丸東側の石垣も駅の高架下に残っている。これはこれで何だか調和している。一部穴が開けられ、駅への通路となっている。埋門みたいだな。
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【舟入櫓跡】 |
本丸の南東隅、海に突き出していた舟入櫓の跡。現在も市街地の中に辛うじて石垣と水堀の一部が残っている。この石垣の南西隅に舟入櫓が建てられており、城内を行き来する舟の監視をしていた。本丸南西隅の臨海一番櫓からから順に5番目の櫓にあたるので、臨海五番櫓とも呼ばれていた。この辺りの石垣は福島正則の頃に築かれたものらしい。
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【舟入櫓石垣】 |
舟入櫓の石垣の基部を見ると、岩礁の上に築かれている事が分かる。現状からは想像できないが、本当に当時この辺は海だったらしい。
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【舟入櫓井戸跡】 |
舟入櫓のあった曲輪内部に残る井戸跡。当時は周囲が海に囲まれた曲輪に井戸を掘って、淡水が出たのは疑問。
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【舟入跡】 |
舟入櫓の東側、街中にぽっかりと残る池のようになっている部分が水堀を兼ねていた舟入の跡。天主台周囲の水堀同様、ここも現在は淡水らしい。
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【東大手門跡】 |
城域東側、和久原川近くに設けられていた東大手門。文禄5年(1596)に小早川隆景が建てた記録が残っているらしい。現在は跡形もなく、石碑が建てられているのみ。
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【和久原川水刎】 |
城域の東側を流れる和久原川の川岸には、川の流れを弱める為に築かれた、水刎と呼ばれる川に突き出した複数の石垣が残っている。これを築いた三原石工は高い技術があったが為に疎まれて非業の最期を遂げたらしい。確かに、水流の激しい川沿いの石垣が現在でもしっかり残っているのは流石。
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【順勝寺山門】 |
城域の西側にある順勝寺の山門は、城内にあった作事奉行所の門を明治10年(1877)に移築したもの。永禄から天正の頃に造られた者と考えられており、数少ない貴重な現存建築物で市の重要文化財にも指定されているが、かなり痛みも激しい。
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【宋光寺山門】 |
三原城とは直接関係はないが、城域西側の宋光寺の山門は福島正則の頃に建てられたものと考えられており、全国的に見ても最大級の四脚門らしい。確かにすごい迫力。一説には小早川隆景が築いた新高山城から移築したものとも言われているが、規模や意匠などから信憑性は低いらしい。
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【桜山】 |
城域の北に位置する標高180mの桜山。山頂には中世山城の遺構も残っており、三原城の詰めの城としての役割をしていたものと考えられる。
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