戸切地陣屋
幕末になって箱館港が開港された事に伴い、この地域の防衛のため、安政2年(1855)に幕命によって箱館を見下ろす要害に建てられた日本初の西洋式の稜堡。箱館の五稜郭より9年も前に築かれている。稜堡形の一角に砲座が設けられていたほか、郭内には17棟の建物があり、120名程の松前藩士が守備していた。明治元年(1868)の箱館戦争で旧幕府軍に大敗した松前藩は、この陣屋を相手方に使われないよう建物を焼き払って撤退した。以降使われることはなく、僅か13年で役目を終えた短命の城。ほぼ同型の四稜郭と比べても完成度が高く、国の史跡に指定されている。
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主郭部
【大手道】 |
城域の南西側が大手にあたり、表御門まで直線状に大手道が通っていた。当時はこの道沿いに22戸の屋敷が並んでいたらしい。明治38年(1905)に日露戦争の勝利を記念して800mに渡って桜が植えられ、現在は桜並木となっている。
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【表御門】 |
大手道の正面に設けられた表御門。空堀に土橋が懸けられ、その先に門が設けられていた。現在は門と両側の塀が復元されている。城に設けられている虎口は、ここと裏御門の二箇所のみとなっている。
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【蔀土塁】 |
表御門の内側には、馬隠しと呼ばれる重厚な蔀土塁が設けられている。
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【土塁と空堀】 |
五稜郭同様、周囲は砲撃を意識した周囲は幅5m~6m程の重厚な土塁と、高低差7~8mの空堀に囲まれている。どの面に立っても、他の面が見えるように設計されているのが分かる。特に大手にあたる表御門周辺は良く整備されている。
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【土塁と空堀】 |
それ以外の面の土塁と空堀も一部木々に覆われているものの、全周にわたってかなり良く残っている事が分かる。内側から見ると、犬走りが三段になっている場所も見られる。また外側にも幅広の犬走りが設けられているが、必要だったのだろうか?ちなみに、この内側の犬走りは、人がここに立って銃を構えるのにちょうど良い高さにつくられているらしい。
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【稜堡】 |
四稜郭形の四隅のうち、函館方面にあたる東側の一角のみに突き出した稜堡が設けられている。当時は6門の砲台が設けられており、重厚な土塁に砲撃用の切れ目が6箇所開けられている。
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【大砲入跡】 |
稜堡内部には大砲の保管庫も確認されている。発掘調査では、建物の内側から小石が敷かれた状態で発見されている。大きさは2.5間(4.55m)×3間(5.46m)程だが、平時ははここに6門の大砲が保管されていたらしい。大砲と言っても、思ったほど大きいものではなかったのだろうか?
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【南側隅部】 |
南側の隅部。東側以外は稜堡になっておらず、鋭角な土塁になっている。普通の城ではなかなか見られない角度。五稜郭などを見ていると、一角だけ稜堡というのは少々不格好な気もするが、やはり全ての角を稜堡にするのは大変だったのだろうか。ま、その分大砲も必要になってくるしな。
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【西側隅部】 |
こちらは西側の隅部。この辺りも良く残っている。
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【北側隅部】 |
こちらは北側。この辺りは木々に覆われているが、こちらも良く残っている。
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【裏御門】 |
表御門の反対側の搦手に設けられている裏御門。表御門と同様に門が復元されている。
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【蔀土塁】 |
裏御門側にも、表御門と同様に重厚な蔀土塁が設けられている。
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郭内部
【郭内部】 |
郭内部からは詰所や長屋をはじめとする17棟の建物が見つかっており、発掘調査に基づいて礎石などが平面提示されている。発掘調査の結果、古銭や炭化米、茶碗、銃弾などが見つかっている。
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【足軽長屋跡】 |
23間(41.86m)×7間(12.74m)とひときわ大きい足軽長屋跡。120名程の松前藩士が詰めていたというので、ある程度の広さは必要だったと思われる。逆にここだけで120人だと、かなり窮屈そうな気もする。
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【風呂屋跡】 |
雪に埋もれて何だか分からないが、風呂屋跡との事。入浴出来るのは月に6回と決められていたらしいが、冬場は寒そうなだけに辛い。
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【建物跡】 |
米蔵、味噌蔵や武器・鉄砲、文庫蔵などは湿気を避けるために盛り土をして一段高くしていたことが分かる。写真は左から米蔵、鉄砲蔵、文庫蔵。
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【井戸跡】 |
数カ所残る井戸跡。いずれも周囲に柱跡があるが、雪に埋もれてしまうため建屋が建てられていたのだろう。
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