Japanese Castle

松前城

 蝦夷地南部を領有した松前氏の居城。松前氏は北海道唯一の近世大名だったが、城主大名格ではなかったため、江戸期を通じて単郭の陣屋しかなかった。幕末になり北方警備を目的に築城が認められ、念願の城持ち大名となり安政元年(1854)に完成した和式建築最後の城郭。しかし、築城後間もなく戊辰戦争で旧幕府軍の攻撃により落城。その後奪還されたものの、多くの部分が破損し廃城となった短命の城。 明治8年(1875)には本丸の建物を除いて殆どの建物が取り壊さた。この時に取り壊されずに残った御三階櫓、本丸御門、東塀が急国宝に指定されたが、昭和24年に御三階櫓と東塀が火災で焼失した。現在は御三階櫓などが外観復元されている。

本丸

【御三階櫓】
 本丸の南東隅に独立して建つ御三階櫓。実質の天守に相当する建物だが、城内にも砲台跡が残っているように、この時期天守など建ててしまったら、大砲の的になる事は百も承知していたはず。その証拠に、石垣は2.5m程とかなり低めにしてあったり、壁の内側には厚さ約6cmのケヤキの厚板を張り、砲弾への備えもしている。何がしたかったのだろう?と言う気もするが、それでも300年越しの悲願の天守を建てたかったという事なのだろう。 造りとしては、破風の無い層塔型で割と簡素な印象で、屋根には雪の重さなどを考え、軽くて丈夫な銅板葺が用いられている。派手で無くても、とりあえず、天守をという執念のようなものすら感じる。 昭和16年には天守、本丸御門、本丸御門東塀が旧国宝に指定されたが、昭和24年に天守と東塀が焼失した。昭和36年に鉄筋コンクリートで外観復元されている。
【本丸御門】
 本丸の正門にあたる門で、移築を除くと唯一の現存遺構。正面からは、一応二階建ての櫓門に見えるが、裏から見ると二階部分がない珍しい門。正面からの見栄えを重視しているらしいが、少し寂しい感じになっている。明治元年の戊辰戦争時、旧幕府軍に攻められた城方はこの門の内側で大砲に弾丸を装填して扉を開けて発射していたが、発射しようと扉を開けた瞬間に突撃されて敗れたらしい。攻城方の土方を褒めるべきなのか・・・
【御三階櫓と本丸御門】
 御三階櫓と本丸御門。これらの石垣は亀甲積みで積まれている。流石に新しい城。また、御三階櫓と本丸御門は土塀で接続されているが、昭和24年の火災で御三階櫓と土塀まで焼失してしまった。この時に焼失しなかった本丸御門は現在重要文化財に指定されている。
【本丸御殿跡】
 天守と本丸御門に守られた広大な本丸跡。当時は本丸御殿が建てられていたが、明治33年に取り壊され、現在は石碑が建つのみ。
【松前神社】
 本丸跡に建てられてる松前神社。賽銭箱には武田菱が。松前氏(蠣崎氏)は武田氏の支流若狭武田氏の末流らしい。
【本丸井戸】
 本丸の一角に残る井戸。『闇の夜の井戸』という不気味な名前がつけられており、忠臣が他の家臣によって謀殺されたという逸話が残る。現地の解説板によると、本来は本丸御門の前にあったものが、移されたとの事。井戸を移す? 堀り直したと言う事だろうか。
【耳塚】
 寛文9年(1669)のシャクシャインの戦いの際に、首の代わりに持ち帰った耳を埋めた場所。なにも本丸に埋めなくても・・・
【御池跡】
 本丸の北側に残る溜池。当時からここに池があったものと思われる。
【東郭隅櫓跡】
 東郭に建てられていた隅櫓跡。慶応3年(1867)に撮影された古写真から、銅板葺の二重櫓だった事が分かる。発掘調査の結果も、絵図どおりの礎石が見つかっているらしい。
【本丸西側】
 本丸の西側には高さ1m程の土塁が残っており、その外側は急勾配な切岸となっている。自然地形のような折れも見られる。
【月琴堀】
 本丸の西側を守る水堀。本丸との高低差はかるく10m以上ある。明治初期に一度埋められたが、現在は遊水公園みたいな感じになっている。当時は堀廻水路が設けられていた。
【松前線跡】
 本丸の西側に見るからに怪しい構造物が。調べたところ、廃線となった松前線のトンネル跡らしい。と言う事は、本丸直下を電車が通っていたのか。何だか凄いな。

二の丸

【二の丸】
 本丸の南側一段下がった場所に位置する二の丸。東側の一部に土塀が再現されているものの、それ以外に建物等は無く、あまり整備はされていない印象。
【大手跡】
 二の丸南側が大手となっていた。大手道の横には番所も設けられていた。立派に整備されている搦手門に比べるとだいぶ寂しい印象で、どっちが大手だか分からなくなる。
【福山城石碑】
 大手門跡付近に建てられている福山城跡の石碑。現在は松前城と呼ばれているが、当時は福山城と呼ばれていた。
【搦手門】
 二の丸東側に設けられた広大な搦手門。復元されている高麗門の先が枡形となった堅固な造りで、やはりこちらが大手に見えてくる。
【復元土塀】
 搦手門付近に復元されている土塀。築かれたのが幕末と言うことで、鉄砲狭間しかなかったらしい。イマイチ見分けがつかない。矢狭間が縦長と思っていたが、そうとも限らないらしい。

三の丸・その他

【三の丸】
 城域の東側~南側の一段下がった場所を取り巻く三の丸。二の丸との間には、幅の狭い水堀が見られる。海防のための砲台が設置されていた。
【台場】
 三の丸の南側に残る砲台跡。築城理由だった海防は重要視されており、当時は南の松前湾に向かって城内に7基、城外9基の砲台が築かれ、これらの台場の上に計25台の大砲が配備されていた。近世城郭と砲台の組み合わせは、なかなか他では見られない貴重なもの。逆に言えば、大砲での戦いを意識していたら、天守は建てないのが普通と言う事だろう。
【台場から見た松前湾】
 三の丸の砲台から見た松前湾。すぐ目の前に海。海防に適した場所だったことが分かるが、逆に海が近すぎて艦砲射撃も受けやすそうな場所。ま 実際にやられたけど。
【木橋と番所】
 三の丸から二の丸搦手枡形に至る木橋。木橋の横には番所が設けられていたらしいが、発掘調査で以降は発見されなかったそう。ただ、慶応3年(1867)に撮影された古写真には写っているので、建てられていた事は確からしい。
【天神坂】
 5つあった登城路のうちの一つで、三の丸の南東隅に至るルート。三の丸の虎口部には高麗門が復元されている。
【天神坂門の石垣】
 上記の天神坂門の石垣部分。こちらの石垣も天守台同様亀甲積みで積まれているが、石が抜け落ちてしまっている。貴重な石垣が・・・
【馬坂】
 5つあった登城路のうちの一つ。城の東側に位置し、江戸時代には松前藩の藩士が使用したと言われている。藩主の四男、数馬之介由広がこの場所で家臣に殺された事から数馬坂と呼ばれ、それが縮まって馬坂と呼ばれるようになったらしい。
【奉行所跡】
 城下に建てられている松前奉行所跡の石碑。現在は町役場となっている。