志苔館
14世紀末~15世紀初め頃に安東氏の家臣、小林重弘によっ中世の蝦夷地に築かれた道南十二館の最東端の城。当初はアイヌとの関係も良好だったが、康正2年(1456)に一斉蜂起したアイヌによって陥落した記録が残っている。翌年には奪還されたが、その後も争いは続き永正9年(1512)に再び陥落している。それ以降の記録に残っていないが、安東氏から蠣崎氏に実権が移り、江戸時代に蠣崎氏が松前藩を成立させ、道南十二館は役割を終えたと思われる。単郭ながら土塁や空堀が良く残っており、昭和9年には国の史跡に指定されている。
|
二重堀
【二重堀】 |
主郭の西側、大手方面から登城してまず目にするのが、この巨大な二重堀。北海道にこれ程本格的な中世の土の城があるとは思っていなかったので、この規模にまず圧倒される。薬研堀から箱堀になったりと、幾度か手が加えられているらしいが、現在は築城当時の状況が再現されているとのこと。現在は二重堀の中央の土塁が通路となっており若干改変されている感はあるが、いずれにしても凄い規模。北海道の城も侮れない。
|
【二重堀の土塁】 |
二重堀の西側の土塁部分。幅10m程のかなり重厚な土塁。この土塁の西側下の腰曲輪的な場所に東屋が設けられている。
|
【二重堀 木橋】 |
発掘調査に基づいて、二重堀のうち外側は木橋、内側は土橋で再現されている。この外側には当初は門が設けられていた。
|
主郭部
【主郭】 |
二重堀から虎口を抜けて主郭に至る。東西約70m~80m、南北約50m~65mの単郭方形ながら、周囲に重厚な土塁と空堀を巡らせている。ここからは函館市内から津軽海峡まで一望することができ、まさに城を建てるに相応しい場所。郭内からは建物跡や井戸が確認されている。
|
【主郭 建物跡】 |
昭和58年から発掘調査が行われ、建築年代が異なる掘立柱建物と礎石建物の跡など7棟の建物跡や門、柵跡などが見つかっている。これらは現在埋め戻して平面展示されている。また、建物跡の他に15世紀初頭頃の舶載陶磁器や国産陶器などの生活用具類も発見されている。
|
【主郭 井戸跡】 |
北東部で見つかった井戸跡。四隅に柱を据え、立板で囲う室町期に流行った様式で掘られている。井戸内からは桶の一部や銅銭などが見つかっているらしい。郭内から見つかっている井戸はこの1箇所のみらしいが、これだけの建物があって、1箇所の井戸だけでまかなえていたのだろうか? 東西に川が流れていたので、通常時は水に困って無かったのだろうか。しかし、これでは籠城するには厳しそう。
|
【主郭北側】 |
主郭北側の巨大な土塁と空堀。空堀の幅は10m、深さは3.5m程らしいが、この辺りの土塁は高さ4.5m程あるため、高低差は8m近くあり、かなり堅固な造り。流石に幾度の実戦を経験している城だけのことはある。空堀の外に停めてある車が小さく見える。
|
【主郭東側】 |
主郭の東側にも虎口が設けられており、土塁の外側には、大手側にあたる西側の二重堀と比べると規模は小さいものの、しっかりと空堀が残っている。やや藪気味だが、空堀の外側には腰曲輪のような地形も見られる。
|
【主郭南側】 |
南側の土塁は高さ1m~1.5m程で、他の箇所と比べるとだいぶ控えめ。当時はもう少しあったのだろうが、確かにすぐ南は海だからな。この辺りは意外とこんなものだったのかな?
|
【腰曲輪】 |
単郭の城とは書いたが、西側には腰曲輪のような地形が見られる。現在は、コシャマインの戦いで戦死した城主の慰霊碑が建てられている。
|