四稜郭
明治2年(1869)に新政府軍の攻撃に備え、旧幕府軍により急造された様式の稜堡式台場。当時旧幕府軍が立て籠もっていた五稜郭の北方約3kmの高台に位置する東西約100m、南北約70m程の小規模な台場で、建物の他、櫓や門、井戸などの設備もなかった。同年の5月11日に新政府軍は函館総攻撃を開始し、この城に籠もっていた松岡四郎次郎率いる旧幕府軍は僅か数時間で敗走した。確かにこの規模と建物もない城内では立て籠もるのも難しい。箱館戦争後は荒廃が進んでいたが、昭和9年に国の史跡に指定され、現在は公園として整備されている。
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【土塁と空堀】 |
周囲の土塁と空堀。昭和44年、平成2年に整備されている。高さ約3mの土塁の外側に、深さ約0.9mの空堀が掘られており、4m程の高低差を作り出している。とは言え、空堀の幅は2.7m程で大砲や銃もあったこの時代の守りとしては非常に心許ない。
旧幕府軍の兵士200名と地域住民100名が動員され、夜通しで工事を続け、わずか数日で完成したらしい。秀吉の一夜城などのように、『一晩で』とか『数日で』とか言うのは大体嘘が多いが、ここに関して言えば、建物もなかったらしいし、300名が頑張れば普通に数日で出来そうな気がする。
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【曲輪内部】 |
城の内部には建物のみならず、櫓や門、井戸などの設備もなかったらしい。要するにほぼ現在見られる状態のままという事になる。この状態で立て籠もって戦えというのも相当無理な話。実際にすぐに敗走している。当時の混乱ぶりがうかがえる。
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【稜堡】 |
四隅のには外に向かって突き出す稜堡が設けられ、稜堡には砲座と砲台を運ぶためのスロープが残っている。しかし、実際にここに大砲は設置されていたのだろうか?相手に献上するだけのような気がするが。
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【虎口】 |
南側中央部に設けられた唯一の虎口。小規模ながら一応左に折れる枡形になっている。
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【雪の四稜郭】 |
2004年に訪れた際は3月だった為、深い雪に埋もれていたが、全体像ははっきりと分かった。
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