姫路城 主要曲輪・腰曲輪
二の丸~山里曲輪
【をの門】 |
現在は二の丸から北側の『ろの門』を通って登城するのが一般的なルートだが、当時は二の丸から山里丸を通るのが大手だったと思われる。その途中にあった『をの門』跡。『ぬの門』までの間で枡形を構成し、山里丸までの防御の要となっていた。高麗門で、すぐ横には『りの櫓』が建てられていたが、明治15年(1882)に焼失した。
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【備前丸の石垣】 |
『をの門』の先、山里丸の手前には備前丸西側の見事な扇の勾配の石垣が見られる。
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【ぬの門】 |
山里丸の西側の虎口にあたる『ぬの門』。城内で唯一三層三階の櫓門で、門扉は総鉄板張り、上部に石落としを設けた堅固な門。この門を見ていると、やはり大手はこっちだったのだろうと実感する。
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【上山里曲輪】 |
備前曲輪の南下段に位置する山里曲輪。この曲輪周囲の石垣は二段になっており、下段の石垣については秀吉築城時の天正8年~9年(1580~1581)に築かれた姫路城で最も古い時期の石垣と思われる。野面積みで隅部も算木積になっていない。
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【上山里曲輪 石棺】 |
上山里曲輪に展示されている転用石の石棺。備前丸の東側石垣に使われていたものだが、昭和の大修理の際に外され、現在は同じ大きさの石が積まれている。姫山などにあった古墳の石棺らしく、築城時に多くの古墳が破壊されたのだろう。これだけの石垣を築くのだから、石集めも大変だったのだろうが、罰当たりな感じがする。ここ以外にも、随所にこのような転用石が見られる。
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【上山里曲輪 お菊井戸】 |
毎夜家宝の皿を数えるお菊の声が聞こえたという、播州皿屋敷の怪談で有名なお菊井戸。この怪談話は永正年間の小寺則職の頃のものなので、秀吉築城の頃よりもさらに昔の話。その頃からこの井戸はあったと考えると、基本的な縄張りは大きくは変わっていないのかもしれない。
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【太鼓櫓(への櫓)とリの門】 |
上山里曲輪の東側、東曲輪とを区切る要所に位置する太鼓櫓と『りの門』。『りの門』からは慶長9年(1599)の墨書が見つかっており。池田氏以前の建物の可能性があるらしい。城内側から見ると分からないが、東側山麓から見るとかなり高い石垣の上に建てられていることが分かる。
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【下山里曲輪】 |
上山里曲輪の一段下に位置する曲輪で、五輪塔などの仏石が祀られている。これらの石は、上の石棺同様、修築工事の際に石垣から出てきたものらしい。
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東曲輪周辺
【東曲輪】 |
太鼓櫓から、備前丸の東側を取り巻く通路のような東曲輪(帯曲輪)。東側には井戸曲輪が設けられている。
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【帯の櫓】 |
東曲輪沿いに建てられている帯の櫓。北・東部の物見櫓と南側の数寄屋風建物の2棟をまとめた櫓で、茶の点前などをしていた場所と思われる。櫓下の石垣には井戸曲輪へと通じる埋門が設けられている。
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【井戸曲輪(腹切丸)と帯郭櫓】 |
帯の曲輪の石垣に設けられている埋門をくぐり抜け、東側に一段下がった場所にある井戸曲輪。腹切丸と物騒な別名で呼ばれているが、実際にはここで切腹が行われた事はないらしい。南側に二重の帯郭櫓が建てられ、南側~西側を守っていた。この辺りは『帯』だらけでややこしい。
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【井郭櫓】 |
備前門のすぐ東側に建てられている井郭櫓。東側に張り出して造られており、搦手側の守りを担っている。内部は三室に分けられており、そのうちの一つには名の通り、深さ16mの井戸がある。
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【チの門と番所】 |
城主の御殿があった備前丸に通じる重要な門で、常時警備の武士がここに詰めていた。与力窓が設けられている。
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備前丸
【備前門】 |
東曲輪から備前丸への入口にあたる備前門。備前丸へ主要な虎口だった。門すぐ横の石垣に使われている大石は石棺の転用石。山里丸にも展示されていたが、本当に結構な数の石棺が転用されている。五輪塔くらいならよく見るが、石棺までこんなに使っているとは・・・
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【備前丸】 |
天守のすぐ南に位置する実質上の本丸にあたる曲輪。当初池田輝政の頃は、ここに御殿が建てられており、西側の渡櫓から水四門を経て天守に出入りしていたらしい。本多忠政の頃になると御殿は三の丸に移されたが、その後も御台所や南側石垣上の長局などは残されていた。しかし、これらは明治15年に焼失し、現在は備前門と祈廻櫓のみが残っている。
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【備前丸の井戸】 |
備前丸に残る大井戸。城内に11ヶ所残る井戸の一つ。
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北東~北側腰曲輪
【枡形】 |
城域の北東に設けられている枡形。この枡形の東側には、搦手に通じる『と』の一門が設けられており、搦め手側の守りの要所となっている。南側には『チの門』と番所が、北側には『への門』が設けられている。
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【への門】 |
上記枡形の基側に設けられている『への門』。門横の土塀は天守台の北東隅と繋がっているが、この部分は鬼門除けの切り欠きが見られる。
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【北側腰曲輪】 |
天守の北側を取り巻く腰曲輪。南側と比べると北側は防備が薄いため、この腰曲輪と直下の勢隠壕により守りを固めると共に、籠城に備えて塩や米などの倉庫となっていた。現在でも塩蔵の土間や壁には塩分が浸みこんでいるらしい。2018年に再訪した際は残念ながら通行止めとなっていた。
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搦手
【『と』の一門】 |
腰曲輪の東側、搦手の最上部に設けられている『と』の一門。『と』の門は一門から四門まで四つの門があり、東側山麓まで続いている。『と』の一門はは城内の他の門とは異なり、門櫓は板張りで2階の窓は突き上げ戸になっており、城の西北方の山上に築かれていた中世の置塩城の大手門を移築したと言われている。
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【『と』の四門】 |
搦手の下部に位置する門。ここから『と』の一門まで搦手が続くが、いつ行っても工事中などで通行出来ない・・・
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【喜斎門跡】 |
城域の東側、搦手にあたる喜斎門跡。内堀に架けられた土橋を曲がったところに門が設けられ、門を抜けた場所には馬出し状の小曲輪が設けられた厳重な構造となっている。
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