姫路城 西の丸・長局
西の丸・長局
【西の丸】 |
鷺山を削って造成された西の丸。大阪の陣後の元和4年(1618)に城主の本多忠政が息子の忠刻と千姫の為に御殿が建てられた場所で、現在御殿は残っていないが、周囲の百間廊下は現存している。防御の弱点だった西側の守りとしても重要な場所で、百間廊下は守りとしても重要な櫓だった。
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【南門跡】 |
南北に2ヶ所あった西の丸の虎口の一つ。当時は番所付きの高麗門が建てられており、現在も礎石が残っている。西の丸には本多忠刻の居館があった為、この門は厳重に守られており、門の東側には武者溜りが設けられていた。
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【カの櫓】 |
西の丸の南端に現存する『カの櫓』。一層部分と二層部分の面積が等しい重箱造りになっており、三箇所に大きな石落としが設けられている。南西隅の『ワの櫓』との間には土塀が接続し、西の丸の南面を守っていた。重要文化財に指定されている。
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【ワの櫓】 |
西の丸の南西隅、百間廊下の南端に現存する『ワの櫓』。この櫓の二階部分から百間廊下に繋がっている。
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【百間廊下】 |
西の丸の周囲を囲むように建てられていた百間廊下。城外側には防御のための狭間や格子窓などを設けた廊下が設けられ、城内側に小さな部屋が並んでいた。当時はここに西の丸で働く女中達が住んでいたと考えられている。百間廊下と呼ばれているが、実際には約300mあるので、百間以上ある。
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【レの渡櫓】 |
『ワの櫓』に接続している渡櫓。廊下の城外側には石落としや格子窓が見られる。
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【レの渡櫓 石落とし】 |
『レの渡櫓』に残る石落とし。西側が防御の弱点だったこともあり、城外側には多くの格子窓や狭間も設けられている。
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【レの渡櫓 雨水抜き】 |
『レの渡櫓』の窓の敷居に取り付けられている雨水抜き。現在のものは、復元されたものだが、当時から鉄製のものが取り付けられていた。これは、天守を初めとする殆どの建物の窓下にあるらしい。
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【ヲの渡櫓】 |
『ヲの渡櫓』には、廊下に面して納戸のある小さな部屋が並んでおり、これらは西の丸御殿で働く女中の住んだ部屋と考えられている。
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【ルの櫓】 |
西端に突き出た部分に設けられている『ルの櫓』。内部を歩いている分には、渡櫓との区別がつかず通り過ぎてしまいそう。
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【ヨの渡櫓】 |
『ヨの渡櫓』の内部には、建物内には普通見られないような、かなり頑丈な扉が設けられている。この扉の内側は身分の高い女性の住んでいたところだったため、頑丈に守っていたものと思われる。
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【ヌの櫓】 |
『ヌの櫓』は二重櫓になっている。
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【カの渡櫓】 |
百間廊下の北側、化粧櫓横の『カの渡櫓』。一部懸造りのようになっている。
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【化粧櫓】 |
千姫が本多忠刻に嫁いだ際に将軍家から贈られた10万石の化粧料で建てたと言われる事から化粧櫓と呼ばれている。外観は一重、内部は二階で18畳、15畳、6畳の3室があり、無骨な城郭建築の中で、唯一化粧櫓だけは装飾的で居住性のある内装だった事が昭和の解体修理の際に分かった。千姫は毎朝、城の西北にある男山天満宮を遥拝したと言われており、その際に休息所として使用したと言われている。桃山時代の居館様式を示す建物として非常に貴重な建物となっている。内部に展示されている人形は、我らが茨城県水海道市にある弘経寺所蔵の『千姫姿絵』をもとに再現したものらしい。
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【北門跡】 |
南北に2ヶ所あった西の丸の虎口の一つ。当時は脇戸付きの高麗門が建てられており、現在も門の礎石が残っている。この門も南門同様に厳重に守られており、門の西端には武者溜りが設けられていた。
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