出石城
出石城について
天正2年(1574)に山名祐豊により築いかれた山城が有子山の山頂にあったが、天正8年(1580)
の羽柴秀吉による但馬征圧によって落城し、その後秀吉方の城代として入った小出吉英によって
慶長9年に麓に出石城が築かれた。有子山の山麓を利用し、東西400m、南北350mの城域に稲荷曲輪、
本丸、二の丸、下の丸、三の丸が典型的な梯郭式で配置され、その東西には山里曲輪、西の曲輪が
配置されていた。元和の一国一城令下での但馬国唯一の城郭となったが、天守は築かれず隅櫓や
多聞が設けられ、要害としていた。城主は小出氏が九代続いた後、松平氏、仙石氏と続き、
明治まで本城として機能していた。
現在は本丸東西の隅櫓が復元され、城下も観光地として賑わっている。
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【三の丸】 |
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元禄15年(1702)、松平(藤井)忠徳により御殿・対面所が造られ、それ以降の歴代藩主は
明治維新までこちらに居住した。現在でも北側の石垣と水堀が良く残っている。
現在は出石町役場になっている。
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【三の丸 辰鼓楼】 |
かつて大手門があった付近に建てられている高さ20m程の辰鼓楼。ここから内側が三の丸にあたる。辰鼓楼自体は比較的新しく、明治になって建てられたもの。明治14年から動いている時計台として、札幌市時計台と共に最古と言われていたが、近年、数ヶ月の差で札幌市時計台の方が古い事が判明した。調べなきゃ良かったのに・・・
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【登城橋と登城門】 |
下の丸と三の丸の間に流れる谷山川にかかる登城橋と登城橋を渡ったところにある登城門。
この脚と門は平成6年(1994)に復元された。
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【谷山川】 |
下の丸と三の丸の間に流れる谷山川。天然の堀として以前から利用されていたように見えるが、
本来は大手門より北を流れていた川を昭和10年に洪水対策の為に移されたらしい。
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【下の丸】 |
登城門の内側が下の丸。下の丸は二の丸の北側の曲輪と西の曲輪に分かれている。
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【下の丸 石垣】 |
下の丸の石垣。谷山川に面した北側の石垣は二段になっている。ここも二の丸として、
二の丸下の郭と呼ぶ事もあるらしい。
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【二の丸】 |
下の丸の一段上にある二の丸。下の丸の二の丸下の郭という言い方に対して、
二の丸上の郭という事もあるらしい。当時は東西の隅に櫓が建てられていたが、現在は残っていない。
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【二の丸石垣】 |
二の丸周囲の石垣も良く残っている。
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【二の丸 西側虎口】 |
二の丸西側の虎口。登城路につながっており、この虎口の上には本丸の西隅櫓が睨みをきかせている。
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【二の丸 北側虎口】 |
二の丸の北側に下の丸へと続く虎口の跡が残っている。
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【本丸】 |
二の丸の上部にある本丸。東西の隅櫓が復元されている。
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【本丸 西隅櫓】 |
西隅櫓。復元では無く模擬櫓らしいが、木造二階、総塗籠で建てられており、
現存遺構にも見える雰囲気の良い櫓。東隅櫓と共に昭和43年に復元された。
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【本丸 東隅櫓】 |
西隅櫓と共に昭和43年に復元された東隅櫓。こちらも西隅櫓と同様良い雰囲気。
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【本丸 石垣】 |
本丸の石垣上には白漆喰の壁も復元されており、中世城郭の雰囲気が良く出ている。
石垣は一部二段になっている箇所もある。本丸御殿と二の丸御殿との間に斜めになった
渡り廊下があったとも言われているが、この辺はその名残なのだろうか?
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【感応殿】 |
出雲藩主仙石氏の祖、仙石久秀を祀っている社殿。明治になって旧家臣らにより建立された。
仙石久秀は大盗賊石川五右衛門をとらえた豪傑として伝説化されている。
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【本丸からの眺め】 |
本丸からは但馬の小京都とも呼ばれる、京の町割りに習った古い町並みが一望できる。
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【稲荷丸】 |
通常、本丸が最高所にあるのが普通だが、出石城では本丸のさらに上段に稲荷丸がある。
当初、ここに天守を建てる計画があったらしいが、実際には築かれなかった。
ここの高石垣が最も高く、見事に残っている。
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【稲荷丸】 |
小出吉英により城内鎮護のために旧領和泉から勧請された稲荷社が鎮座している。
江戸時代には城下の人々のお参りに開放されていたらしい。
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【稲荷社参道】 |
城域の東側が稲荷社の参道となっており、谷山川にかかる朱色欄干の稲荷橋から、
157段の石段と、37基の朱の鳥居が立ち並んでいる。現在でもここを何往復もして
稲荷社に何やら祈願をしている人がいた。
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【山里郭】 |
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二の丸の東に位置する山里曲輪。一部石垣が残っているが、こちらはあまり整備されていない。
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【有子山城】 |
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稲荷曲輪の東側虎口の横に有子山城への登城路の入口がある。山麓との比高は300m近くあり、
登城路もかなり急峻らしい。山麓からも石垣が見える。
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