逆井城


【逆井城】


【一ノ曲輪】


【古城跡】


【鐘堀池】
 天文5年(1536年)3月3日、逆井城主逆井常繁が、北条氏康方の大道寺駿河守の城攻めに敗れ戦死した際に、城主 の奥方(娘か)は先祖代々伝わる釣鐘をかぶってこの池に飛び込み、自殺したと言われている。この釣鐘を捜そうと何人もの人か 池を掘ったため、「鐘掘池」とか「鐘掘井戸」と呼ばれている。この池はどんな旱でも水が枯れたことがないと言われるほど、湧水が豊か。 城の生活水を賄うために掘られたのではないかと考えられている。


【一ノ曲輪〜東二ノ曲輪 櫓門と橋】
 この櫓門と橋は、発掘調査の成果をもとに復元されており、柱の遺構は礎石・男柱・支柱の柱穴、柱桁支柱の穴が 見つかっている。また、櫓門の遺構としては、東西に3個ずつ2列で方形に結べる柱穴と雨後溝が見つかっている。復元に あたっては、遺構保存のため、旧柱位置より西へ1m、北へ50cmずらされている。なお、戦国時代末期の姿が想定されている。

【一ノ曲輪〜東二ノ曲輪】


【東二ノ曲輪】

【東二ノ曲輪 横矢】

【東二ノ曲輪 比高二重土塁】


【一ノ曲輪〜西二ノ曲輪】


【西二ノ曲輪 北側】

【西二ノ曲輪 西側】

【西二ノ曲輪 櫓台】

【西二ノ曲輪 南側 壕】

【西二ノ曲輪 二層櫓】
 戦国時代末期の時代背景を基に、外観二層の容姿をもつ戦国期の櫓を復元したもの。近世の隅櫓ではない 時代を感じる櫓として、6m四方の平面を持ち、入母屋の望楼に下見板張り等の外壁によって当時の景観を再現している。

【西二ノ曲輪 井楼櫓】
 西二ノ曲輪の南西に建つ模擬井楼櫓。井楼櫓は米を蒸す蒸籠と同じように、井形に組んだ方形材を次々と組み上げた櫓の事で、 戦国時代末期のものを復元したもの。このような櫓の役割が発展・大規模化して近世城郭の天守閣となった。実際にこの場所に 櫓があったかは分らないが、かなり本格的で雰囲気がある。

【西二ノ曲輪 土塀】

【西二ノ曲輪 関宿城薬医門】
 関宿城の城門と言い伝えられるこの門は、明治6年の廃城の際に払い下げられ、町内の鶴見栄助氏宅にあったものを移築したもので、 朱塗りで格調の高い門。ちなみに、薬医門とは、本柱が門の中心線上から前方にずれている門のこと。

【西二ノ曲輪 本堂】
 茨城県牛堀町で発掘調査された大台城の主殿遺構を参考に復元されたもの。大台城は1595年頃に築城されたもので、 坂井城と同時代に存在していたものである。構成は正面から見て右側半分が主室で、左側半分がその控室的な部屋となっている。 主室の三間に三間の部屋構成は「九間の間」と言われるもので、室町時代中期の主殿建築の特徴的なものです。前面仁は 枯山水庭園が広がっている。

【西二ノ曲輪 観音堂】
 大安寺(岩井市)にあったものを移築・復元したもの。天正16年(1588年)建立時の棟札と弘化2年(1845年)再興時の棟札か現存している。 これにより、天正16年の上棟後、幕末に改造の手が加えられたことが判明している。木柄の大きな角柱の面取り、舟肘木などはいずれも 天正期特有の様式を良く残しており、貴重な建築物として町指定の文化財となっている。堂内は板敷で、天井は悼縁天井となっている。

【西二ノ曲輪 礎石】
 古河城の書院礎石を復元したもの。


【大手口】


【三ノ曲輪】


【飯沼】
 戦国時代末期、旧飯沼は現在の水海道市・岩井市・結城郡石下町・八千代町・猿島郡三和町そして猿鳥町と、二市四町に またがる東西約1km、南北約20kmの沼だった。江戸時代の享保9年(1724年)に八代将軍徳川吉宗の命により干拓が行なわれた。 逆井城は標高20mの高台にあり、自然の要害としてのこの飯沼に守られていた。


【外郭】

【外郭】

【外郭】