豊田城
豊田城について
この地域を治めた豊田氏により築かれた城で代々豊田氏の居城として機能しており、戦国期の城主、豊田政親は小田城主・小田氏治と同盟を結び、多賀谷氏に対抗していた。しかし、天正6年(1578)に豊田治親が家臣に毒殺され豊田氏は滅亡し、多賀谷氏の城となった。その多賀谷氏も慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの出陣要請に応じず、小山評定の際に家康本陣に夜襲をかけようとして改易され、豊田城は廃城となった。現在は巨大な模擬天守が建てられているが、勿論当時の遺構とは無関係。実際の城跡は小貝川の河川改修で消滅してしまい、堤防上に石碑が建てられているのみとなっている。
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【模擬天守】 |
現在石下町のシンボル的な建物となっている五重七階の模擬天守。平成4年に石下町地域交流センターとして建てられたもの。時代考証も何も全て無視した堂々とした天守。
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【模擬天守内部】 |
模擬天守内部は地域交流センターとなっており、一部はこの地域の歴史資料館となっている。甲冑や刀なども展示されていた。
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【豊田氏毒殺の場】 |
垣武平氏の一族で、この地域に代々続いた豊田氏だったが、天正3年(1575)年に家臣の飯見大膳に豊田治親が毒殺され豊田氏は滅亡した。その際の様子が再現されているが、毒殺と言うより斬り合いの場に見える。
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【天守からの眺め】 |
天守からの眺め 平成27年9月10日の関東・東北豪雨の際は鬼怒川が決壊し、この一帯は浸水被害に見舞われた。遠くに筑波山も見える。
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