土浦城



【土浦城】
image-1  土浦城は幾重にも堀を巡らした水城で、現在城跡に指定されている本丸・二の丸を中心に 三の丸・外丸のほか、武家屋敷や町屋がひろがり、それらを北門・南門・西門を結ぷ堀で囲む 総構えを形成していた。現在も本丸表門の櫓門、裏門の霞門が現存する他、東櫓と西櫓が復元されている。 戦国時代には、城主は若泉氏、信太氏、菅谷氏と変遷したが、織豊期には結城秀康の支配下に入った。 江戸時代の城主は松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平(大河内)氏と変わった後、 土屋政直が再び入城して、以後明治維新に至るまで土屋氏(9万5000石)の居城となり、 幕藩政治における土浦の中心、象徴として存在した。 明治以降、多くの建物が火災や移築、取り壊しにより失われ、本丸跡は土浦県庁、新治県庁、 新治郡役所などに利用されたが、現在も櫓櫓、霞門が現存し、二の丸跡の一部とともに 亀城公園となっている。


【本丸】
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 南側に櫓門、北側に霞門が現存し、東西には櫓が復元されている。周囲の土塁も残っており、 東側の一部には土塀も復元されている。現在は二の丸とともに亀城公園となっている。

【本丸櫓門(太鼓櫓門)】
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 本丸の南側に位置する木造瓦葺、入母屋造りの櫓門で、本丸に現存する櫓門としては 関東で唯一のもの。時刻を知らせるための太鼓が置かれていた事から、太鼓門とも呼ばれている。 朽木氏時代に築かれ、明暦2年(1656)に改築されたと伝えられている。

【本丸霞門】
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 本丸の北側に位置する裏門。水堀を渡った所に内枡形が設けられており、 霞門は内枡形の二の門にあたる位置に建てられている。

【本丸西櫓】
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 元和6〜7年頃、西尾氏の時代に本丸土塁上に東西の櫓が建立されたと伝わっている。 明治以降、多くの建物が火災や移築、取り壊しにより失われたが、櫓門、霞門、西櫓は 昭和まで残っていた。しかし、西櫓は老朽化と昭和24年のキティ台風により小破し、 昭和25年に復元を前提として解体された。その後、長い間復元されずに土塁上には 礎石のみが残されていたが、近年復元された。

【本丸東櫓】
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 西櫓同様、元和6〜7年頃に本丸土塁上に東西の櫓が建立されたと伝わっている。 明治17年に本丸館とともに焼失したが、平成10年に復元され、現在は展示物館として 入館出来るようになっている。

【本丸内濠】
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image-1  本丸周囲の内濠は、二の丸との間の南側は埋め立てられているが、それ以外の部分は良く残っている。 別名亀城と言うだけあり、濠には沢山の亀が泳いでいた。


【二の丸】
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 本丸の南側に位置する二の丸。本丸との間は水堀と櫓門によって仕切られていた。 現在は本丸とともに亀城公園となっている。

【御用米蔵】
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 二の丸の東側は独立した曲輪状になっており、御用米蔵と呼ばれていた。 東側には土塁、北側には水堀の一部が残っている。

【前川口門】
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 御用米蔵の東側、二之門があった位置に昭和56年に移築された門。 親柱の背面に控柱を立て屋根を架けた高麗門で、武家屋敷であった多計郭と町屋の間を仕切る 前川ロ門であったと言われている。江戸時代末期の建築で、明治18年(1885)に土浦戸長役場の門として、 さらに大正九年(1920)には田宿町(現大手町)の等覚寺山門として移され、その後、寺から寄贈された。

【聖徳太子堂】
image-1  御用米蔵に建てられた聖徳太子堂。昭和11年に桜川沿いに建てられたが、 昭和41年の土手の改修工事の際に移されたものらしい。

【外丸跡】
image-1 image-1  御用米蔵の東側に位置する外丸跡。土塁と濠を隔てて外丸が位置し、現在も濠の名残が見られる。

【外堀】
image-1 image-1  二の丸の南側に残る外濠。現在は橋がかけられているが、当時は無かったと思われる。


【大手門跡】
image-1 image-1  城域の東側、現在の土浦幼稚園付近に大手門があった。外側に単層の門、内側に二層の櫓門を 備えた内枡形門で元和8年(1622)に建てられ、明治6年(1873)に取り壊された。 この辺りの道は、多くが江戸時代のままで、大手門の名残も残っている。


【博物館】
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 西側に隣接する博物館には、土浦城のジオラマや古地図なども展示されている。

【土浦領境界石】
image-1  博物館横に展示されている土浦領境界石。江戸時代に水戸街道に面して、土浦領と他領との 領界に建てられていた石。「従是北土浦領」は現在の土浦市中村、「従是南土浦領」は中貫にあたり、 それぞれ塚が築かれその上に設置されていた。土屋篤直の書いた『土浦道中絵図』の中にも この境界石が描かれている。

【礎石と基礎地業】
image-1  博物館横に展示されている東櫓の礎石。復元前の東西の櫓の土塁上には礎石が残されており、 これらの礎石の表面に残された土台や壁の痕は、建物を復元する際の手がかりとなった。 復元にあたっては既存の礎石が出来る限り再利用された。 また、発掘調査の結果、東西の櫓の礎石下のつくりが違っていた事が分かった。 西矢倉は地盤を堀り小石などを入れて叩き固められていた。東櫓では、さらに下に 丸太材が打ち込まれていた。