金沢城 本丸跡
本丸跡
【掘切】 |
本丸附段と二の丸との間の掘切。両側に石垣が築かれた大規模な掘切。石垣には多くの刻印が見られる。
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【極楽橋】 |
本丸附段と二の丸との間の空堀に架けられた木橋。江戸時代から極楽橋と呼ばれており、金沢城の前身となった金沢御堂に由来するものと言われている。
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【三十間長屋】 |
本丸附段に建てられている二階建ての長屋。幅3間で長さは26.5間(約48m)なので、若干サバを読んでいる。宝暦の大火(1759)で消失し、以降100年近く再建されなかったが、安政5年(1858)になり再建された。と言うわけで、鶴丸倉庫以上にギリギリだが一応現存と言うことで重要文化財に指定されている。大火前は食器などを納めていたが、再建後は武器・弾薬を納めていたらしい。戦後、金沢大学のキャンパスになっていた頃は、図書館倉庫の一部として利用されていたらしい。贅沢な。また、古絵図によると、この長屋の南側に天守代用となった三階櫓が建てられていた。
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【三十間長屋石垣】 |
三十間長屋の石垣は、切込接ぎの表面の石と石との接合部のみを綺麗にそろえてある珍しい石垣。これは『金場取り残し積み』と呼ばれる技法らしく、あえて内側を残して、当時の文書曰く『いきおいのある積み方』にしているらしい。宝暦年間(1751~1764)頃の石垣。
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【鉄門】 |
現在は木々の中にひっそりと石垣が残っている印象だが、寛永の大火(1631)以降、本丸の正門になっていた門。両側の切石積みの石垣上に渡櫓を載せた重厚な門で、門の扉には鉄板が貼られていたことから鉄門と呼ばれていた。現在残る門の石垣は、明和3年(1766)の改修時のものらしい。
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【本丸】 |
城域南側、標高60mの尾山の最高所に位置する本丸。この辺りは金沢城築城以前に金沢御堂があった場所と言われている。前田利家入城後はここに本丸御殿や天守も建てられており城の中心部として機能したが、寛永の大火(1631)で多くの建物が焼失し、それ以降城の中心は二の丸に移った。現在の本丸は自然豊かな森になっており、少し分かりにくいが、三十間長屋がある場所は正確には本丸附段にあたり、鉄門から東側が本丸となる。さらに本丸内の東側は東の丸と呼ばれているが、こちらも森。モリアオガエルもいるらしい。
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【丑寅櫓跡】 |
本丸の丑寅の方角に位置する櫓跡。この櫓台から本丸東面にかけての野面積みの石垣は文禄元年(1592)に築造された城内最古のものと考えられている。櫓は他の本丸内の建物同様宝暦の大火(1759)で消失し、その後は再建されなかった。
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【本丸東側の石垣】 |
本丸東側の石垣。丑寅櫓からこの辺りの石垣は文禄元年(1592)に築造された城内最古のものと考えられている。数段に分けて積み上げられているが、総高は20m以上あり、この頃の石垣としては日本有数の規模。
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【辰巳櫓跡】 |
本丸の辰巳の方角に位置する櫓跡。現在は三段に積まれているが、これは明治期になって一度崩れて積み直されたもので、元々は高さ22m以上ある城内隋一の高石垣だったらしい。櫓自体は長屋を備えた立派な櫓が建てられていたが、他の本丸内の建物同様、宝暦の大火(1759)で消失し、その後は再建されなかった。
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【戌亥櫓跡】 |
本丸の戌亥の方角に位置する櫓跡。ここも石垣のみが残っている。二重の櫓が建てられていたが、他の本丸内の建物同様、宝暦の大火(1759)で消失し、その後は再建されなかった。
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【遺構?】 |
本丸の北東側の虎口の近くには巨大な空堀のような地形が見られる。しかし、石垣の内側で場所的に空堀と言うことはなさそうだし、虎口にしても微妙。何の遺構か分からない。古絵図を見てもこのような場所は見られないので、後世の改変だろうか。
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