Japanese Castle

金沢城 二の丸跡

二の丸跡

【二の丸】
 寛永の大火(1631)の後、ここに千畳敷と呼ばれる広大な御殿が建てられ、それ以降の藩政の中心となった。しかし、江戸時代には何度か火災で焼失し、さらに明治期になり陸軍の兵営地となり多くの建物や門が壊された。現在は文化5年(1808)に再建され、明治14年(1881)まで残っていた安政頃の櫓群が古絵図を元にして見事に復元されている。戦後最大級の木造城郭建築とのこと。
【菱櫓】
 二の丸の北東隅に建てられている三重櫓。隅の角度が80°と100°と言うことなので、だいぶ歪んでいるのだが、外見ではそう分からない。中に入ると確かに菱形のような気がする。土台形状の関係で不定形の櫓を建てるている例は結構見るが、この菱櫓は、大手と搦手両方を広い視野で監視するために、あえて菱形にしているらしい。
【五十間長屋】
 二の丸の東面には、二の丸最大の長屋だった五十間長屋が復元されている。北側の菱櫓と南側の橋爪門続櫓とを繋ぐ総二階建ての長屋で、長さは98mに及んでいる。三の丸方面の守りとともに、平時は武器や食料などの倉庫として使われていた。五十間でも十分長大だが、当時は九十間長屋というのもあったらしい。なお、この長屋下の石垣は、最近になって積み直されているが、三の丸の側が粗加工石で二の丸側がちょっとグレードの高い切石積みとなっている。

【二の丸北面石垣】
 二の丸北面の石垣。この部分の石垣は最も完成された粗加工石積みと言われており、確かに見事に隙間無く積まれている。寛文8年の改修時のものらしい。
【橋爪門】
 江戸期、実質の中心だった二の丸に至る最後の門で、寛永8年(1631)の大火後に整備された城内最大規模の二重枡形門だった。河北門、石川門とともに三御門と呼ばれているが、その中でも最も厳しく制限されていた。江戸時代に2度火災で焼失しているが、文化6年(1809)に再建された門が現在復元されている。

【橋爪門敷石】
 橋爪門の敷石は、正方形に加工された石を斜めに敷く四半敷きと呼ばれる石畳になっている。これは御殿の玄関周りと同じもので、二の丸の正門として格式が高い門だった事が分かる。
【橋爪門内部】
 橋爪門内部。橋詰門二の門の櫓とその隣の続櫓が現在は内部で繋がっているが、当時は繋がっていなかったらしい。あとエレベーターがついたりしているのは個人的には少し残念なところではあるが、とは言え、伝統的な木造工法を使って良い感じに復元されているのが分かる。
【雁木坂】
 橋爪門の二の門にあたる櫓門を抜けると、現在は直進する遊歩道が設けられてしまっているが、当時はここにも枡形が設けられており、ここからもう一度右手の雁木坂の階段を登り二の丸に入るつくりだった。
【数寄屋敷】
 二の丸の西側、一段下がった曲輪は数寄屋敷と呼ばれ、城主の側室達が部屋があった場所で、周囲には見事な切石積みの石垣が残っている他、巨石を用いた櫓台も見られる。後に旧第六旅団司令部が置かれた。
【数寄屋敷周囲の石垣】
 数寄屋敷周囲に残る切石積みの石垣。一見同じ積み方に見えるが、左右で時期が違うらしく、写真中下の所々に刻印が見られる部分は寛文期(1661~1673)に改修された時のもので、写真右の石垣は文化5年(1808)に改修された時のものらしい。同じように見えて、100年以上も違うとは・・・ 分からないものだな。
【裏口門跡】
 二の丸の北西隅に設けられた裏口門跡。水堀の西端に位置し、半分土橋のような形状に見える。
【鶴の丸】
 三の丸の南に位置する鶴の丸。北側の石垣と水堀は、寛永8年(1631)の大火の後に築かれ、明治期まであったもの。現在見られる石垣と水堀は、近年復元されたものだが、基底部の石垣の数段は当時の石垣が残っているらしい。訪れた時は曲輪内を整備していたが、発掘調査と言うよりは、何かを造っている感じだった。何が建つのだろう?

【鶴丸倉庫①】
 鶴の丸の南側、東ノ丸付段に現存する鶴丸倉庫。当初は明治期に建てられてものと思われていたらしいが、最近になって嘉永元年(1848)に建てられたことが分かったらしい。この辺の数十年で現存か復元かの大きな違いになる。これも現存建物と言うことで、無事重要文化財指定を受けている。ま どこかで区切らなければいけないからなぁ。
【鶴丸倉庫②】
 鶴丸倉庫は22m×15m、面積にして333m2、総二階建てでつくられており、城郭内にあるものとしては、全国的に見ても最大級のものらしい。確かに内部もかなり広い。また、周囲には換気口が設けられていたり、窓には装飾なども見られる。当時は武具蔵として使われていたと思われる。
【東の丸付段】
 紛らわしい話だが、鶴丸倉庫は鶴の丸に建てられているのでは無く、正確には鶴の丸の南にに隣接する東の丸付段という曲輪内に建てられている。その東の丸付段の周囲には、高さ3m程の石垣が残っている。